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一歩一歩


 就業時間のチャイムがなり、こんな時だけ滞りなく業務は終了した。

 いつの間にか五條さんはいなくなっていて、一子ちゃんとロッカールームに向かう。


「まりもさん。あの」


 まぁ、うん。声かけづらい空気出してるよね。この時点で私はかなり一子ちゃんに甘えているのだろう。そんな事を自覚して、少し前を歩いていた私は、なるべく自然な笑顔を作った。


「一子ちゃん、心配かけてすみません」

「いえ、あたしはいいんですけど、その……」

「さっき見た通り私もよく分かってないんです。とりあえず弟に連絡取ってみますね」


 更衣室に入りすぐにポケットからスマホを取り出した。

 まだ牧場は仕事中だとは知っていたけれど電話をかけてみる。

 予想していたけれど仕事中らしく呼び出し音だけが響いて、重たい肺の中の空気を吐き出した。

 おじさんの牧場に直接電話を掛けて呼び出して貰うのも良いけれど、きっと忙しいだろう。

 少し迷ってから電話を切り、そのまま画面に指を滑らせる。


『ドラゴン世界で勇者やってた?』


 なんて、自分なら正気を疑う一言を送信してから、スマホを鞄に戻した。


「やっぱり仕事中みたいで通じません。夜には掛け直してくれると思うので、明日また聞いて貰っていいですか?」

 パッと振り返ってわざと軽い口調で話せば、一子ちゃんはこくこくと何度も頷いた。ややあってから。

「……あの、話くらいならいつでも聞きますから! でも話したくなかったら聞かないし! 五條さんとかトモル君懲らしめるなら、私も手伝います!」


 一子ちゃんなりに、私の事を考えてくれたのだろう。

 ぐっと両手で拳を握った一子ちゃんのいじましさに、強張ってた身体からちょっと力が抜けた気がした。

 本当、天使みたい。いやもう天使だな。


「……一子ちゃん、ありがとう……」

「いえ……!」


 無理矢理作った笑顔じゃなく、自然と笑みが浮かぶ。今度は心からお礼を言えばそれこそ一子ちゃんの方が泣きそうな顔をして、ぶんぶんと首を振った。



 そんな一子ちゃんと駅前で別れた私は改札に向かう。

 帰りの電車を待つホームの定位置に立ち、鞄のポケットから取り出したイヤホンを耳に刺した。

 気持ちを落ち着かせる為に、お気に入りのトラックを聞き流す。やってきた電車に乗り込めば、いつも通りの満員電車。

 位置取りに失敗し、ぎゅうぎゅうに押し潰される身体を何とか反転させようとしたその瞬間、不意に圧迫感が消えた。代わりに目の前にあったのは白いTシャツの上からでも分かる厚い胸板だった。


「――ガザ様」

 顔を上げて確認するよりも先に、名前が口をついていた。

 近すぎるせいで、太い喉仏しか見えない。僅かに上がって下がるその膨らみと共に、落ち着いた声が落ちてきた。


「家まで送りたい」

 ちょうど音楽と音楽の切れ目だった。

 クリアに聞こえた言葉に、首を振ろうしたけれど、家の場所は昨日の時点でバレている。どうせ断っても少し離れて着いてくるくるつもりだろう。

 ……夕食時だし、さすがに今日もお母さんが外にいることはないよね。


「……勝手にどうぞ」

「ああ」


 ぎゅうっと背中を押されて、思わずたたらを踏めば、ガザ様の胸に触れた頭を抱え込まれた。

 ――……いい香り。

 蒸し暑い季節になりつつあるので汗臭いのかと思いきや、ガザ様から森の匂いがした。そういえば今日はこちらに来るのも遅かったし、どこかの山奥にでも行っていたのかもしれない。仕事だという不法残留しているドラゴンの捜索と捕獲なら、人目を憚って森に隠れている事もあるだろう。

 ああ、いいなぁ。

 私も全部放り出して森の中で思いきりマイナスイオンを吸いたい。


 なんだか田舎を思い出させるような懐かしい香りに、不意に涙が滲みそうになった。

 ――くそう。癒しアロマ効果か。


 それに加えてこのタイミングで優しくするなんて卑怯だ。

 そう心の中で毒吐きながらも、私は何故かツンと痛む鼻の奥に思いきり顔を顰めたのだった。


 



    ※




 ――結局、斗真からの返信を寝ずに待っていたというのに着信はなく、深夜にメッセージアプリは既読がついたものの、『(゜ロ゜屮)屮』というふざけた顔文字が返ってきただけ。

 そのまま電話をかけたけれど、電源ごと落としたようで、ちゃんと番号に掛け直しても繋がらなかった。


「あの、クソ弟……っ」

 夜中だし、農場の夜は早い。明日の朝は――それこそ迷惑だろうから、昼休みにおじさんの農場に直接電話をかけることにしよう。


 とりあえず段取りを決めてしまえば、少し心は落ち着く。


 だけど斗真の反応が――いつも通りだった事に少なからずほっとした。さすがに脅されていたりしたら、あんな馬鹿みたいな返信はしないだろう。


 電話を受けないのは私に怒られるのが嫌だから。多分それだけだ。付き合いが長い分、斗真の思考も行動も分かっている。……いや、分かってたはずなんだけど。


 ――なんて一晩中そんな事を考えていたら、あっという間に朝が来た。

 頭の中はずっと冴えていて、眠くはないけど瞼は重くて勢いよく顔を洗う。

 お母さんといつも通り朝の会話をしておばあちゃんにも挨拶する。

 トーストを齧って歯磨きして化粧して髪も纏めて……淡々とルーチンをこなしていく。

 馬鹿正直に会社に向かう自分もどこか滑稽に思う。だけどどうせ彼らの手の中だ。例え会社に行かなくても、いつか迎えに来るだろう。それでお母さん達を驚かせるよりは自分から出向いた方が良い。


 最後に家の玄関を出て顔を上げると、そこにはガザ様が立っていた。……いやまぁそんな予感はしてたけど。


「……今朝はどうしたんですか」

「マリが傷ついているから、側にいる」

「そうですか」


 もう拒否も肯定もせずにそのまま歩き出す。

 愛想の欠片もないのに、ガザ様は黙ったまま私の隣に並んだ。

 傷ついている、というのは嘘じゃない。

 一から百まで知っていると思い込んでいた弟に重大な隠し事をされていたし、自分の手でもぎ取った? 就職かと思えば弟ありきだったし、ちょっと信頼し始めていた五條さん達に利用されてるかもしれないし。

 

 ……でもやっぱり一番不安で気になるのは、私の身柄を利用して斗真に危険な何かさせるんじゃないって事だ。斗真の足手纏いになるなんて、姉としてのプライドが許さない。

 寝不足だけど昨日一晩考えたおかげで、頭の中は随分整理出来たし、元気もちょっとだけ出た。

 そのまま駅まで歩くけれどお互い無言で改札を通り乗り込む。

 

 うん。まずは一子ちゃんに謝罪だ、すっかり心配を掛けてしまった。アルさんにバレたら殺人ビームで焼かれそうだけど、今回は反省を込めて甘んじて受け入れるべきかもしれない。


 電車はもちろん昨日以上に通勤ラッシュど真ん中のぎゅうぎゅう詰め。

 ガザ様は押されても顔を顰めるだけで、特に何も言わず黙って耐えている……けれどさすがに軸がブレていなくて、庇ってくれている私に重さがくることはない。


 昨日も思ったけど、黙って満員電車に付き合ってくれているガザ様が意外だった。不快だと思ったら怒鳴るなり、もしくはドラゴンブレスなんか吐いたりしてスペースを確保しそうなのに。

 ガザ様は王族らしいし、性格からして満員電車なんて乗ったことないだろう。それにお金なら腐るほどあるってトモル君も言ってたし、私をタクシーにでも突っ込んだ方が早いはずだ。

 だけどこうして付き合ってくれている。


「……」

 未だすっきりしない重い瞼を閉じて、俯く。


 ……昨日だって、多分ガザ様は五條さんに口止めされたはずだと思う。でも私が知らないと知ってわざわざ確認して伝えに来てくれたのだ。その後も答えを拒否した五條さんに詰め寄って聞き出そうとしてくれた。 

 あの行動でガザ様はこの件は知らない、関係がないのだと確信できた。

 でもそんなガザ様の行動はドラゴン側からすれば愚かな行為か、もしくはもっと重く、裏切りになるのかもしれない。

 

 誰かが味方でいてくれるという安心感。

 同族の損益勘定や事情を顧みないほどの『番』というシステム。あれだけ馬鹿にしていたのに、私自身がそれをガザ様の信用する基礎にしている事に気付いてしまう。


 いっそガザ様と意見でも出し合う? 私の知らない事をきっと知っているだろうけど――でも、そうなったら、ガザ様の立場は?


 人目も憚らず、いっそ頭を掻き毟りたくなった。

 ああ、もう、一晩掛けて少しは冷静になったと思ったらすぐコレだ。

 こんなに悩んだの、斗真の借金以来?


 至近距離にあるガザ様の身体からは、やっぱり昨日と同じ濃い森の匂いがした。遠かった眠気が戻ってきたようで、だんだん瞼が重くなるほどに落ち着く。

 ……もしかしてドラゴンってみんな良い匂いするのかな? でも前にトモル君に膝枕して貰った時は何も感じなかったけど。あの時も相当てんぱってたからなぁ……覚えていないだけかもしれない。


 だけど多分、私はこの香りが好きなのだろう。

 とりあえずそれだけは認めることにした。



*



 いつもの時間に会社に到着し、私は雑居ビルのエレベーターホールの前で足を止め身体を返した。狭いスペースなので後ろから続こうとしていたガザ様を見上げて口を開く。


「ガザ様。仕事に行ってください」

「……」


 ガザ様の表情は動かない。私は溜息をついて、言葉を付け足した。


「仕事しない人は嫌いですよ」


 昨日から今朝までガザ様の位置は変わってなかった。……考えたくはないけど、一晩中家の前にいたのなら今日の仕事のノルマを前倒しでクリアしてきた、なんて事はないはずだ。

 お互い強いくらいの視線が絡んで、先に折れたのはやっぱりガザ様だった。当然だ。この件について私は折れるつもりはない。


「……分かった。辛くなったらいつでも呼べ」


 はい、なんて言えるほど図々しくない。

 なんだかんだあれだけ拒否しといて、自分が弱った途端すがり付くような真似は絶対にしたくない。

 ガザ様がロビーから出ていくまでちゃんと確かめてから、私はボタンを押したらすぐにやってきたエレベータに乗り込む。


 いつものようにカードキーで扉を開けて、若干速足で更衣室に駆け込む。  

 一子ちゃんはまだ来ておらず、外靴は置かれていなかった。

 私は手早く着替えてぱちんと頬を叩き、ぐにぐにとマッサージするように頬を引き上げてから、更衣室を出た。

 軽く深呼吸してから、すぐ隣の事務室をノックする。

 一呼吸置いた後、向こう側から扉が開いた。


「おはようございます」


 挨拶を口にしながら見上げた五條さんの表情に僅かな驚きが見えた。

 その理由を考える前に、五條さんはすぐにいつもの無表情へと戻ってしまう。


「おはようございます。いらっしゃったんですね」

「仕事ですから」


 端的に返した言葉には、ガザ様に放った言葉以上に愛想の欠片もない。

 上司には決して褒められない態度だろう。だけど五條さんは昨日と変わらない無表情に戻り、「真面目ですね」といつかも聞いた言葉を小さく呟いた。


「まりもさん。トモルが今日の夕方にこちらに来るそうです。帰りが遅くなるかもしれませんが、それでも構いませんか?」


 ぎくりと心臓が跳ねた。


「……大丈夫です」


 意外に早く分かりそうな真相に、きゅっと唇を引き結んで頷く。

 少しでも早く知りたいとは思っていたけれど、昨日の今日なんて随分早い。


「こちらが今日の分の受付票になります。それから源さんは少し調子が悪いみたいで少し遅れるとアルから連絡がありました。体調を崩したようです」


「一子ちゃんが……」


 私が心配をかけてしまったからだろうか。

 心配になった一方で、一瞬本当だろうか、と疑ってしまう。

 私の味方をしてくれるだろう、一子ちゃんを遠ざけた可能性もある? でも――それならそれでいい。一子ちゃんのお腹の赤ちゃんの為にもこれ以上心労は掛けたくないのだ。


 私は五條さんから受付票を受け取ると、軽く頭を下げて事務室から出た。





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