手がかかる子程可愛い法則
簡単に浴槽だけ洗って、シャワーで洗い流し、泡を纏った水が排水溝に吸い込まれるのを、私はじれじれしながら見守っていた。
これ待ってると異常に長い時間に感じるよね。
そして見届けた後も、なんだかまだ泡が残っている気がして、てもう一回シャワーで流してしまう私。エンドレス。
自分でも嫌になる几帳面ぶりを発揮しつつもそんな一連の動きを繰り返して、ようやく浴槽の栓を閉めた。
お湯張りボタンを押して、ジャバラ式の蓋を閉めてから浴室を出て急ぎ足で台所へ戻る。――その途中でお母さんの弾んだ笑い声が聞こえて、廊下で足を止めてしまった。
笑い声、……いや、まぁガザ様相手だし、お母さんがご機嫌で一人で話し続けてるんだろうけど。
「……」
今、気付いたけど、お母さんがこんなに声を立てて笑うなんて久しぶりだ。
元々うちのお母さんはとても明るく、趣味も多くて友人も多い。いつもにこにこして楽しそうだし、トラブルメーカーな愚弟が何かやらかしても明るく笑い飛ばすような人だ。
……今回、愚弟を更生させる事ばかり考えていたけれど、もしかしてお母さんは、一人暮らしはしているもののしょっちゅう実家に転がり込んでいた愚弟が遠くに行ってしまって寂しかったかもしれない。
「……」
……愚弟のあのあけっぴろげな馬鹿さ加減に救われる所は確かにあるのだ。
……私も余裕のない就職活動で心が荒んでいたから、お母さんとゆっくりお茶を楽しむなんて事無かったもんなぁ……。
お給料も入ったし、たまには美味しいお菓子でも買って、お母さんを労ってゆっくりお喋りとかするべきだよね。
「駄目だなぁ…………」
家にお金を入れているとはいえ、微々たるものだ。
それなのに洗濯も掃除もして貰ってるし、そもそもお母さんがそれを使わずに貯めてくれているのも知っている。
たまには親孝行しないとな、と反省していると、一際高いお母さんの笑い声がまた響いた。
それにしても盛り上がってる……。
いやでも待って? 反応の少ないガザ様とお喋りだけで、そんなに笑えるような会話になる……?
なんだか胸をよぎった悪い予感に、慌ててキッチンの扉を開けた。
ダイニングテーブルを見ればガザ様とお母さんは顔を突き合わせて――は、言い過ぎだけどお互い近い距離でテーブルの上に置いた何かを覗き込んでいた。
お母さんが刺した指の先をガザ様が見て――表情が柔らかくなる。
いつかどこかで見たレアな表情だ……と、思ったのは一瞬で、お母さんの指先を見下ろして私は飛び上がった。
「ちょ……っ! それ!」
「あ、お風呂掃除お疲れさまーありがと! これ万理のアルバムよ。懐かしいでしょう~!」
「なんでそんなもん出してきたのー!」
私は駆け寄ってテーブルの上からアルバムをひったくった。うわぁあ痛恨のミス……! やるよね、ベタだよね。母親がお客さんに昔のアルバム出してくるやつー!
「ちょ、お母さん! 他人の子供の頃のアルバムなんか見せられて困るものナンバーワンなんだからね!」
前の会社の上司の出産祝いに行った時、永遠と家族ビデオを見せられ続けてどれだけ反応に困ったか……! いや可愛いんだけどね、五分ごとに感想求められてもそんなに表現の引き出し持ってません! せめて動き出してから見せて欲しかった……!
「オレは困ってない。マリ見せてくれ」
目の前にずいっと大きな手が差し出される。
私は奪ったアルバムを胸に抱え込んでぶるぶる首を振った。断固拒否である。
「ほらぁ。ガザさんもこう言ってるんだし。そもそもそれお母さんのものよ~。万里独り暮らしする時、いらないって言ったじゃない」
「その時は荷物を少なくしたかったからであって!」
「いらないなら譲ってくれ。いくらでも出す」
喰い気味に口を突っ込んできたガザ様をぎっと睨む。ややこしい時に入ってくんな!
私の表情から察したのだろう。ガザ様自身、思わず言ってしまった、とでも言うような顔をして、気まずそうに視線を逸らした。
「駄目よぅ。私の宝物なんだから。見るだけ、見るだけね〜!」
そんな私とガザ様のやりとりを見ながら、お母さんはそう言って、椅子の上にまだ隠し持っていたらしいアルバムを新たに机の上に置いた。
幼稚園の遠足の集合写真から始まる二冊目を捲ると、既にやんちゃの兆しが見えている愚弟がおすまししている私の背中にのし掛かっていた。視線を下げればお母さんの隣の椅子には、凶器になりそうな分厚いアルバムがまだ二つ。
さすがに四つも抱えて逃げられるほど力持ちではない。そもそもガザ様が本気になれば私の抵抗なんてあってないようなものだ。
ガザ様も困ってはないみたいだし、お母さんも楽しそうだし、恥ずかしさはこの際我慢すべきか……。
私は諦めの溜息をついて、赤ちゃんの頃のアルバムは抱えたまま再び自分の椅子に腰を落ち着けた。
お母さんを止めるのは諦めたけれど、目の前にアルバムがあれば見たくなるのは人情だ。
ついつい覗き込んでしまい、家の前で三輪車に乗る自分を発見した。
可愛いひまわりの浴衣を着て可愛く髪の毛をお団子に結って貰っていてご機嫌だ。
なんとなくこの浴衣は覚えているから、きっと楽しかったのだろう。その横で甚平を着た愚弟がなぜか私の袖に一生懸命、ヒーローベルトを突っ込もうとしている。……もしや、鞄代わりにしようとしてたんじゃないだろうな。
小憎たらしくても、こうして客観的に見れば幼さもあってなかなか可愛らしい。
前も言ったけれど愚弟は顔だけは良い。幼い時は特にご近所でも可愛いと評判だったくらいだ。中学校くらいまでは年が離れている事もあり私も『ウチの弟可愛いでしょー!』とクラスメイトに自慢していたのは黒歴史だ。
いや、まだこの時は可愛かったしな……と、過去を振り返りながら写真を凝視していると、それに気付いたお母さんが、懐かしそうに目を細めた。
「懐かしいわねぇ。この頃、どこに行くのも万里の後ろについていって仲良しだったのよねぇ」
「そうだったっけ?」
首を傾げて他の写真を見れば、確かにどの写真にも愚弟が映り込んでいる。ちなみに斗真と言うのが今更出てきた愚弟の名前だ。言うに事欠いて『真』とか、名前負けしすぎである。
母の言葉を現すようにページを捲る度に出てくる弟の姿。こうなってくると私のアルバムなのか斗真のアルバムなのか分からなくなってきた。
少し大きくなって小学校の入学式。達筆な看板の前でピースしているのは私と、何故か脹れっ面で目を真っ赤にさせている斗真の姿だった。
人の晴れの日に何不愛想な顔してるんだ、と憤っていると、お母さんは懐かしそうに目を細めた。
「ああ! これこれ。懐かしいわ、保育園ではずっと二人一緒だったから、斗真も万里と一緒に小学校に入学できるって思ってたみたいでねぇ。万里にくっついてるのを無理矢理お父さんが引き剥がしたから、大きな声で泣き出しちゃったの」
「へぇ」
全く覚えてないけどそんな事があったのか。
「だからお父さんが校庭でひたすらあやしてたの。せっかく万里の入学式だってお仕事休んだのに、体育館にも入れなくて出席出来なかったのよ」
幼かった私でも覚えているほど、愚弟は手の掛かる子供だった。
健康で丈夫だったけれど、好奇心旺盛な性格でふらふらとどっかに行ってしまいしょっちゅう迷子になっていた。
そういえば小学校卒業するまで常に手を繋いで移動してたなぁ。クラスメイトに見られるのが恥ずかしかったっけ?
「さすがにお父さんもがっかりしてねぇ。お母さんが撮ったビデオを見ながらすごく残念がってたわ」
「そうなんだ……」
父さんの話が続いて、意外な気持ちでお母さんの顔を見る。
お母さんとお父さんは子供心にも仲が良かった。お父さんが亡くなった時はお母さんは子供の目から見ても憔悴して窶れていたから、今までなんとなくお父さんの話は避けてきた。さりげなくお母さんを窺えば、懐かしそうに細めた瞳の奥に陰はなくて、心の中でほっと胸を撫で下ろした。
タイミング良くお父さんの膝の上に座っている写真を見つけて、懐かしいな、と思う。
……私、お母さんじゃなくてどっちかっていうとお父さん似なんだよね。鼻の形がそっくりだと親戚にもよく言われてたし。
もう朧気になってしまったけれど、余り怒られた記憶もなくて凄く優しい人だった記憶がある。
お父さんは私に甘くてお母さんは斗真に甘かったような……。
「弟……」
「ん?」
ぽつりと小さな声で呟いたのはガザ様。
きっと似てない姉弟だな、と思ったのだろう。
さっき言った通り、私は父親似で弟は母親似なのだ。
「あ、そうです。弟いるんですよ。あんまり似てないんですが」
顔立ちはそこまで離れているわけじゃないけと、古い友人曰く醸し出す雰囲気が真逆なので、余計に似てないと思い込んでしまうらしい。
前もってそう宣告したけれど、ガザ様は視線をずっと、写真に置いたままだ。
ソコまで気になる? と首を傾けてガザ様の覗き込めば眉間に皺が寄っている。
んん? 今更不機嫌なの?
私の視線に気付いたらしいガザ様が、一瞬口を開き掛け――止まった。ややあってから眉間の皺を深くさせたまま、ボソリと呟いた。
「この世界の……いや、この国の姉弟はこんなに四六時中くっついているものなのか?」
「……え?」
とん、と指先で写真を示す……よりは突き刺した感が強い。お母さんはそんなガザ様に、あらあらと頬に手をやり苦笑した。
「そうねぇ、私もこの頃働いていて家にあまりいなかったから、仲は良かったわね。斗真にとって万里は第二の母親みたいな存在だと思うわ」
「母親……」
「え、やだ」
反射的に顔を顰める。
それじゃ何だか私が育て方を間違ったみたいではないか。
些か納得出来ずガザ様の呟きにもう次のページを捲ってしまおうと指を伸ばせば、ガザ様がまだじっと写真を見下ろしていた。
「ちょっとガザ……さん、指どかして下さいよ」
無理やり捲ろうとしてもぴくりとも動かない指にそう文句を言えば、ガザ様はようやく指を外してゆっくりと顎を掻いた。
「……どこかで見た事がある……」
「え?」
写真の斗真は五才かそこらだ。まぁ今も二十歳超えても高校生だと思われるくらいのベビーフェイスなので、そこそこ面影はあるけれど……それこそ昔を知らないと気付けないと思う。
意味深なガザ様の言葉に戸惑う私を押しのけるように、お母さんはずずいと前のめりになってから、ポンと手を打った。
「あ、もしかしてガザさん、北海道に行ったことがあるのかしら? 斗真は今そっちにお世話になってるのよ。あちらのスキー場は外国の方に人気だって聞いたことがあるわ」
嬉しそうに声を弾ませるお母さんに若干焦る。
お母さんには斗真は北海道の叔父さんの所へ『自主的』に手伝いに行った事にしている。叔父さんはお正月に本家で集まる度に万年人手不足を嘆いているので、説得力はあったのだ。
お母さんもいい歳をしてアルバイトを転々としている斗真の将来を心配していたので、半年でも定職に就く事にほっとしていた感じはあった。
「……確かに北海道には行ったことはあるが。……それとは」
「じゃあ会った事あるかもしれませんね!」
同意しつつもあっさり流してしまう。似てる人なんて世界に三人はいるっていうし、どこで会ったかとか気になるけれど、相手はガザ様だ。
人違いだろうけど、この世じゃない変な場所で会ったなんて言われたら説明に困る。
「そうだったら素敵な偶然ねっ。斗真はちょっとお調子者なんだけど、憎めない子でねぇ――」
お母さんがそう話しかけたところで、オルゴール音『お風呂が沸きました』と給湯器のアナウンスが台所に響いた。
そしてチャンスを逃さない私ではない。
予定通り、私は目の前のアルバムをぱたっと閉じた。
「お母さん、お風呂焚けたよ。早く入らないと冷めちゃうし、ガザさ、……んも、もう十一時だし電車なくなっちゃうから!」
電車が無くなる、というワードはお母さん世代には強い。
ローカル線の田舎寄りの駅のおかげで終電も早いのも今回ばかりは感謝だ。
「あら、もうそんな時間なの? ガザさん引き留めちゃってごめんなさいね」
お母さんが慌ただしく立ち上がって、冷凍庫にしまっておいたアイスを持ってくる。
「これ何もなくて悪いんだけど、良かったらお家で食べてね。保冷剤入れてるから一時間くらいは大丈夫だと思うけど」
出たよ、田舎のおかん体質……なんで、お客さんが来ると意地でもお土産渡すんだろうね……。しかも絶対私の分も入ってる……。お高いアイスだと聞いてこっそり楽しみにしてたのに。
ガザ様も立ち上がりちょっと戸惑った複雑な顔をして紙袋を受け取る。ちらりと見えた中身は斗真のランチトートだ。中に銀色の断熱シートが入ってるヤツ。
「二つとも同じ味で悪いけど。うちの姉弟はどっちも抹茶味大好きでね」
……ワイルドなガザ様にファンシーな紙袋もランチトートも似合うはずもないけれど、ガザ様がどことなく嬉しそうな顔をしている気がする……。もしや抹茶好きか。
「外玄関まで送ってくる!」
「はいはい。ガザさん、良かったらまた来てね」
いや! もう二度と来ませんから!
ガザ様の代わりにそう心の中で返事をして、私はお母さんのサンダルに足を突っ込んだ。先に玄関の扉を開けていたガザ様の後ろについていく。
がちゃり、としっかり戸を閉めてお母さんの気配が遠ざかったのを確認してから、私は改めてガザ様に向き合った。
「――今日は付き合って貰って有難うございました! あと余計な事も言わないでくれて感謝してます!」
勢いよく頭を下げると、ガザ様はちょっとびっくりしたように半歩後ろに引いたのが落とした視界のスニーカーの動きで分かった。
ぱっと顔を上げると、ガザ様は「いや」と顎を撫でてちょっとそっぽを向く。……なんだか気まずそう? んーと、……照れている感じ? だけど、今のどこにそんな要素があったのか謎だ。
自分の行動を振り返っていると、ガザ様はようやく平常モードに戻ったらしく、ニッと笑って私を見下ろした。
ああ、そういつもこんな感じだもんね。なんだか送ってくれてた時から借りてきた猫みたいに大人しかったもんなぁ。
「マリの母親に会えて良かった」
……良かった?
まぁ、認めてないけど『番』の母親だもんね。片思いの人の母親に会う感じ? うーん……でもガザ様がそんな事気にするようなタイプ?
「――……あー……どこにでもいる普通のお母さんですけど」
「いや、マリの生活に触れることが出来た事が嬉しいんだ」
返事に困って適当に流そうとすると、いつになく真面目な口調でガザ様がそう答えてた。いっそう答えが迷宮入りした。むしろどう答えろと!
「いや……っえっと……でもっ本当にありがとうございました。お母さん結構強引なのに、合わせてくれて」
「気にしなくていい……ああ、なら、一つ『お願い』をしていいか?」
突然の申し出にちょっと構える。
「……内容によります」
ちょっと睨むように見上げてそう言えば「もう嫌がることなんてしねぇよ」とガザ様は鼻に小皺を作って抗議してきた。お、本調子出てきたな。
じゃあ、なに、と問いかける前に、伸びてきた手が私の後頭部を覆った。
戸惑うよりも先にそのまま優しく引き寄せられて、頭のてっぺんを撫でられる。
まるで慈しむような動き。
不意に――お父さんに撫でられた事を思い出した。手の大きさとあったかい温度が同じで、驚きと不思議な感覚に戸惑ってしまう。
「……ガ、ガザ、様……?」
そのまますり、と頭のてっぺんにガザ様の頬が触れた。
長いような短いようなひとときが過ぎて。
「――おやすみ」
振ってきた声は穏やかで優しく、色っぽい響きはない。
そっと体温は離れていった。
顔を上げると既にガザ様は外門を音もなく飛び越えていて、綺麗な背中が月を背景に遠ざかっていた。
「……おやすみなさい……」
ほぼ反射的にそう呟くと、ドラゴンの聴覚で聞こえたらしいガザ様は、少し止まってから、ピンク色の紙袋を持ち上げてぶらぶらと振ったのだった。




