お迎え
それは何の前触れもなかった。
テオさんはまだ戻らず、リタさん達は買い出しに出掛けて、お客さんもまだ来ていない、そんな静かで長閑な午後。
おやつの後にベッドの上でお店に来たお客さんに、(なぜか私が)貰ったトランプで、双子と何度目かの神経衰弱をしていた、そんな時。
双子は同じタイミングで顔を上げ――それよりも早く、アリリオ君は私を抱き込んだ。
「え!?」
「舌を噛みますので、口を閉じていて下さい!」
いつかも聞いたきりっとした声でアリリオ君はそう言って、私を抱えたまま後ろに跳躍する。
そして次の瞬間、どん、っと足元が揺れたかと思うと、ものすごい音を立てて窓の扉どころか壁ごと破壊されたのだ。
「っわぁあ!」
悲鳴を上げてアリリオ君の首に抱きつく。
ああ婚約者さんごめんなさい! これは決して疾しい気持ちではありません……!
「レギ君、イトちゃん!」
はっとして双子を探せば、天井近くに羽を出して避難していることに気付いてほっとした。……いや、私よりも確実に運動神経がいいし、ドラゴンだし心配なんていらないんだろうけど、やっぱり見た目が幼児なので守らなきゃいけない気がしてしまうのだ。
ほっと胸を撫で下ろして、すぐに壊れた壁の向こうに目を凝らす。
壁の向こうからふわりと降り立ったその人影が、部屋に入るなり足を止めたのが分かった。
「まりもさん」
……え!?
不本意な――少し懐かしいあだ名を呼ばれ、立ち上がった砂埃に向こうを凝視すれば、そこにいたのは五條さんだった。
「ご、五條さん!」
うわ、なんか懐かしい!
たった数日ぶりだというのに、思わずそんなことを思ってしまう。
派手すぎる登場に驚いたものの、嬉しくなって名前を呼べば、五條さんは私を見て足を止め、微かに目を見張った。
「――怪我を?」
「え? あ! 大丈夫です」
左腕は動かせないように、固定して首から布で吊ったままだ。見た目がわりと重症なのできっと驚いたのだろう。
……あ、労災下りない、とか思ってたらどうしよう。
「詳しいことは後で聞きます。まりもさん、帰りますよ」
五條さんは指先でくいっと眼鏡のフレームを押し上げた。そして革靴を鳴らして、再び私とアリリオ君に歩み寄る。
慌てて私もそちらに行こうとすると、なぜかアリリオ君に腕を取られて止められてしまった。
「え? あ、知り合いなんで、大丈夫です、よ?」
慌ててそう説明するものの語尾が微妙に上擦ったのは、アリリオ君の瞳孔が縦に細くなっていたからだ。
確かにどんな理由があったとしても、壁を壊して入ってくるような危険人物に上司から任された人間を近付けたくはないだろう。ましてや最弱認定されている私(小動物)だ。
だけど説明さえすれば、すぐ手を離して貰えると思ったのに、アリリオ君は私の手を掴んだまま一向に離してくれない。
その上表情も固く、睨むようして五條さんを見ていた。
「君は……テオの部下ですか。今すぐ彼女を引き渡して――」
「アリリオ。渡すな」
五條さんの言葉を遮ったのは、ここ数日ですっかり聞き慣れた低い声だった。
同時に五條さんの背後に影が生まれて、その肩を大きな手が掴んでいた。
砂埃が完全に晴れて、次に姿を見せたのはテオさんだった。
「人の家を破壊しておいて、謝罪もせずに帰るつもりか」
あ……そりゃそうだよね……。
ガザ様がソファやらガラスやら壊してけろっとしてたから、ドラゴンは環境破壊とか器物破損に大らかな種族なのかと思っていたけど、やっぱりそんな設定はないらしい。
おそらく五條さんは私を迎えに来てくれたんだろう、だけど私だって、なんで玄関から普通に訪ねて来なかったのか知りたいくらいだ。
正面を向いたまま、すぅっと目を細めた五條さんが、テオさんの手をぱしりと払った。
「貴方が素直にまりもさんを渡さないからでしょう。わざわざお礼の手紙まで出したというのに、まさか着いて早々、攻撃されるとは思ってもみませんでしたよ」
「お前が正直に全てを話さないからだろう。……とりあえずと思って、城に連絡したのは間違いだったな」
五條さんの嫌味にも動じることなくテオさんは、淡々と返事する。
……どういうこと?
テオさんが五條さんを攻撃したって、なんで?
……意味が分からない。テオさんだって、五條さんが迎えに来てくれるなら、私をゲートまで送る必要はなくなるのに。
お父さん気質の心配性だから、自分で見送りたかったから?
色々考えるけれど、どれもピンと来ない。
「全く間違いではありません。むしろただの乗り物酔いで気を失ったのですから、その間に背中にでも縛って城まで運んで下されば良かったのです」
事も無げにそう言った五條さんに、テオさんはかっと目を見開いた。
「そんなことできるわけないだろう! 死んでしまったらどうする!」
その声に部屋中がびりびりと揺れた気がしたけれど、五條さんはちっとも動揺することはなかった。
「毛布で巻いておけば、飛行中も体温も保持できるでしょう。問題ありません」
いやいやいや、簀巻きにして運ぶとか、問題だらけですが……!
信じられないことを聞いたとでも言うように言葉を失ったテオさんの代わりに、そう心の中で突っ込んでおく。
それになんで乗り物酔いしたって知ってるんだろう。それもテオさんが連絡したのかな?
しかも扱いが酷い。ここの生活が真綿で包まれていたせいか、その厳しさが殊更堪える。
吐いた人間簀巻きにしたら、吐瀉物とか喉に詰まらせて窒息死する危険性もあるからね! 五條さんとテオさんを足して二で割れば、ちょうどいい感じになるんじゃないだろうか。
そうこうしている内に我に返ったらしいテオさんは、鋭い視線で五條さんを見据えた。
「ゲートの関係者の手引きで、タチバナはレグアの森に捨てられていたんだ。お前も含めて信用できん」
「なぜゲートの関係者が犯人だと?」
「タチバナが庇っているからな。おそらく顔見知りだろう」
テオさんの言葉に私が驚いてしまった。……もちろん私は犯人を知っている。だけど突っ込まれなかったこともあって、うまく誤魔化せたと思っていたのに。
……そりゃそうか。小娘の嘘くらい見抜けなければ、人を束ねる隊長なんてものにはなれないだろう。
改めて過保護なだけじゃない、テオさんの観察力の高さに感心してしまった。
「責任者であるお前はまず犯人を捕まえ、タチバナを安心させるべきだ。まだ犯人がのうのうと顔を出しているような、そんな信用の置けない場所にタチバナを帰せるわけがない」
そこで初めて五条さんの表情が動いた。苦虫を何匹も噛み潰したような顔に、初めて見たな、と思う。だけどそんな表情も一瞬だけで、すぐにいつもの無表情に戻ってしまった。
「……こちらの主人には、後日改めて場所を用意して、謝罪と然るべき対価をお渡しします。後日犯人の身柄を渡してもいい。今は一刻を争うので、邪魔しないでください」
そして私に向き直り、五條さんはその形の良い、だけど酷薄そうな薄い唇を開いた。
「早く戻りましょう。ガザ様がお待ちです」
「え……? あ、えーっと、……会わなきゃ駄目ですか」
むしろ会いたくない。私が会いたいのは母だけである。そして――すっかり忘れていたけれど、ガザ様とはあの日、気まずく別れたままだ。……二重に会いたくない。
……たけど、想像は出来る。
番だとかなんだか言ってたんだから、向こうの世界ではきっと大騒ぎになっているのだろう。ガザ様は本能のまま暴れているかもしれない。
そう思ってぞっとする。
思わず両手で腕を擦れば、そんな私をしっかり見ていたらしいテオさんが再び口を開いた。
「タチバナが嫌がっている」
そう言うと、五條さんに向かって構える。
いつの間にか私を背後に庇っていたアリリオ君も、腕だけをドラゴンにして明らかな戦闘モードである。ぴりっと走った緊張感に一気に空気が薄くなる。まさに一瞬即発――とでもいうような雰囲気だった。
これはマズい展開なんじゃ……。
下手したら私、一生自分の世界に戻れないんじゃない……?
「タチバナ連れていっちゃだめ!」
「だめなのよ!」
まさかの双子達までも羽だけ出して私の前に出る。幼児だけあって羽も小さくて可愛い……だけど今はそんな場合ではない。危ないし、ややこしくなるから今は下がっていてほしい。
「まりもさん。今すぐゲートに戻って下さい。ガザ様がずっと不眠不休で貴方を捜しています」
こわっ……!
「あの、それなら私、ゲートにも戻らない方がいいんじゃ……」
いつか源さんに聞いたように、攫われるなんてごめんである。むしろそれより一刻も早く、自宅に戻ってお母さんに言い訳したいのだ。
「いいえ。それこそまりもさんには、ゲートにいて貰わないとガザ様を抑えることが出来ません。ここにいることに気付かれれば、残念ながらこの場で抱き殺されるかもしれません」
「今すぐ帰ります!」
思わず即答してしまう。
あと子供の前だから! そういう単語はなるべくぼやかして!
「タチバナ!」
驚いたような声にはっと我に返り、申し訳なくなって、私は改めてテオさんに向かって頭を下げた。
「テオさん、本当に大丈夫です。今までお世話になりました。このご恩は一生忘れません。また落ち着いたら――」
「まりもさん! 大丈夫です。貴方は私達が守ります!」
後ろからアリリオ君がそんな熱い言葉を掛けてくれて、びっくりする。最初のクールさが嘘みたいな勢いだ。
それに同意するように双子ちゃんも、五條さんに向かって牙を剥く。
か、可愛い……! ちっちゃい組(アリリオ君も含む)の行動がほんと私を守ろうとしてくれているのが分かって、状況を忘れて母性本能がきゅんきゅんしてしまう。
そして五條さんの悪役が嵌りすぎてて、違和感が仕事しない。
「ちょっと、何があったんだい!?」
リタさん夫婦も買い物から戻ってきたらしい。
部屋に駆け込んできて、五条さんの姿と部屋の惨状に目を丸くする。けれどすぐに部屋を見渡して、双子ちゃんの無事を確認すると、ほっと肩から力を抜いたのが分かった。
とりあえずこの状況は私のせい……かもしれないので、双子ちゃんを回収し駆け寄って謝ろうとしたら、五條さんが私の腕を掴んだ。
双子ちゃん達がその手に飛びかかって引きはがそうとしてくれたけれど、残念ながらびくともせず、一旦空中に飛び上がって様子を窺うように、くるくる回っている。
「別れの挨拶はもう済んだでしょう。すぐ戻りますよ」
「ちょ……待って下さい! リタさん達にも挨拶したいです」
振り返ってそう言うと、五條さんは眉間の皺を深めて、溜息をついた。
「もう挨拶は先程済んだはずです。こちらの方が急務です。早く戻りましょう」
――は!?
嫌味たらしい口調に、カチンとくる。
「それは!」
気付けば私はそう怒鳴っていた。
五條さんは私の突然の大声に驚いたようで、掴んでいた腕から一瞬力が抜けた。
私はその隙をついて手を引き抜き、睨むように五條さんを見上げる。眼鏡の奥の瞳は大きく見開かれたままなので怖くはない。
「……だからそれは、貴方方の都合ですよね? 大体、私がここにいるのは、元を正せば貴方のせいでしょう」
一言一言ゆっくりと言葉を紡ぐ。
アルさんの小芝居に騙されてしまった私のうっかりもあるとはいえ、私の上司は五條さんだ。それにもっと最初から言ってしまえば、脅すように私をゲートに就職させたのも彼である。
「……すごくお世話になったんです。別れの挨拶くらいさせてください」
立つ鳥後を濁さず、だ。
恩知らずとか思われるのは、私のプライドが許さない。……若干、キレていたとはいえ、後から思えば五條さん相手によく言えたな、と自分でも感心するくらいの啖呵を切っていた。
けれどこの数日間、テオさん達といることによって、ドラゴンには大分慣れたし、なにより何度も死線を跨げば度胸だってつく。ドラゴンは猛獣じゃない。人間と同じ知性があって……優しさだって持っている存在だ。
だからちゃんと話せば伝わる、って私はもう知っている。
時間にしておそらく数十秒。
短いような長いような沈黙が落ち、口を開いたのは五條さんが先だった。
ゆっくりと口が開かれるのが分かり、怒鳴り返されるか、と思って覚悟していると、掛けられたのは「申し訳ありませんでした」という謝罪の言葉だった。 ――しかも、そのまま頭を下げたのである。
ご、五條さんが謝った……!
自分から仕掛けたくせに、下手に出られると焦る小心者の私。
せっかく格好良く決めたのに、狼狽したのを知られたくなくて五條さんにくるりと背中を向けた。
リタさんに駆け寄ると、両手を持ち上げてくれたので、ついその胸に飛び込んでしまう。
リタさんはドラゴンらしからぬ優しさで、ふわりと抱き締めてくれた。そして少し屈んで私の顔を覗き込む。
「タチバナちゃん、あんな位の高いドラゴンに食ってかかるなんてやるわねぇ。……これなら安心じゃない。ね、あんた」
「そうだな」
リタさんは隣の旦那さんを見上げて同意を求め、そして悪戯っぽく笑って私の背後にも声を掛けた。
「テオもそうだろ?」
いつの間にか背後にいたらしい。振り向くとテオさんがじっと私を見下ろしていた。
「……本当に嫌じゃないんだな?」
真面目な口調のテオさんが、静かに問いかけてくる。
私はリタさんから体を離し、テオさんに向き直って改めてしっかり頷いた。
彼から真意を探るようなこんな厳しい視線を向けられるのは初めてだ。
だけどここで目を逸らしてしまったら、きっとテオさんは私を五條さんに渡さないだろう。しっかり見つめ返す。目は逸らさない。
しばらく見つめ合って、先に表情を緩めたのはテオさんだった。私にもう一歩近づくと手を伸ばして頭を撫でた。
「寂しくなる」
その手つきはいつものように、とても優しく、なんだかしんみりしてしまう。……やだな。最近すっかり涙腺が弱くなってる。
そして、まだ納得していないドラゴン腕のアリリオ君にも「大丈夫だから」と頷いて見せる。だけど、アリリオ君は姿を戻すことなく、テオさんに物言いたげな視線を向けた。
「アリリオ、いい。悪かったな」
テオさんが手を伸ばしてアリリオ君に頭にぽんと手を置いた。するとアリリオ君は、ようやく腕を元の人間のものに戻す。
……その顔はまだ少しばかり不服そうだけど、もう五條さんに殺気は向けていない。
「向こう行っても元気でやるのよ。双子達が寂しがるからゲートまで遊びに行くから」
リタさんがそう言ってくれて、私は嬉しくなって頷く。だってやっぱり私がここに来るより、来て貰える方が現実的だと思うから。
ついでに話題の双子達は、五條さんの左腕と右足をあぐあぐ噛んでいて、なんだか楽しそうだ。アレだ。歯が痒いのかもしれない。
痛くないのかな……と、心配になるけれど五條さん無表情のままなので、きっと大丈夫なのだろう。
あれがドラゴン流のあやし方なのかもしれないし、……や、多分違うけど。
またアリリオ君と目が合って少し気まずくなる。けれど、私がちょっと首を傾げて見せると、アリリオ君は、ふっと表情を緩めてくれた。
「……僕も今度休みを取って婚約者と伺います。その時に日本のお勧めの場所を教えて下さい」
「いいデートスポット探しときます!」
私が勢い込んでそう言うと、ようやくアリリオ君は笑顔になってくれて、ほっとした。嫌な気分にさせたまま別れたくなかったから。
「何かあったらいつでも頼ってこい。ガザ様からも守ってやる」
最後にそう言ったのはもちろんテオさんだ。おそらく五條さんとの会話で色々察してくれたのだろう。
……もう人目が無かったら、おとうさーん!! と叫んで抱きつきたいくらい。
本当にいい人達すぎて泣けてくる。
もう一度、四人に感謝を込めてしっかりと頭を下げる。そして踵を返して五條さんの元に駆け戻った。
「ありがとうございました」
結局結構長い時間待たせてしまったのに、意外にも五條さんは怒ることはしなかった。
「……行きますよ」
五條さんはそう言って双子ちゃん達を振り払う。
結構な勢いでヒヤヒヤしたけれど、双子は楽しかったらしく、キャッキャッとはしゃいで、くるりんと天井と壁に張り付いた。
「レギ君とイトちゃんも元気でね」
二人にもお別れの言葉を掛けると、どうやら本来の目的を思い出したらしい。ぴゃっと悲鳴のような声を上げて目を丸くする。
「あっダメ!」
「タチバナ帰っちゃう!」
と、二人して私の方へ飛んでこようとして、リタさんに捕獲されてしまった。バタバタ暴れているけれど、リタさんは小脇に抱えて私に行くように促してくれる。
五條さんは噛まれて皺だらけになってしまった袖を引っ張って直した後、スーツの内ポケットからお札のような赤い紙を取り出した。
どこかで見たことがあったような気がするけれど、思い出せない。
五條さんに腕を取られ、身体が宙に浮いたのが分かった。
そして、視界が一気に暗転したのである。
あと二、三話くらいで二章終わりです!
来週更新予定。