ガザ様の贈り物
『』内英語として読んで頂きたく……!
次の日。
すっかり慣れた雑居ビルには入り、エレベーターを下りたところで、源さんの声が聞こえて顔を上げた。その前には見慣れない……外国人の男の人がいて少し驚く。
この雑居ビルで源さん以外の人間を見たのは初めてだった。
「どうかしたんですか?」
困ったような源さんの声に、早歩きで近づいて問いかければ、振り向いた源さんは私を見るなり困り顔から、ぱっと顔を輝かせた。
「まりもさん! あの、お客さんみたいなんですけど、私英語全然話せなくて!」
『貴方もここで働いているんですか』
すぐに飛んできた英語に、苦手意識からちょっと胸が反る。深呼吸して、私は口を開いた。
『ええ。申し訳ありませんが、お名前をお伺いしても?』
『良かった。私はイギリスゲートで働いているヨハンだよ。ゴジョウに会いに来たんだけど……』
イギリスゲート……!? マジかそれ!
そんな所にもこんな非常識空間があるの? もしかして世界各地に点在してるとか? うわ、ちょこっと通らせてくれないかな!
そんな驚きは綺麗に隠して、こくりと頷き、私は再び口を開いた。
『分かりました。すぐに確認取ってきますね』
「源さん。すみませんけど、五條さん呼んできてもらってもいいですか?」
妊婦さんを伝言係にはしたくないけれど、また二人きりにされる方が不安なんじゃないかと思って、敢えてお願いする。
……直接案内してもいいんだけど、本当にこの人が関係者かどうかなんて、私には分からないし……。やっぱり五條さんに確認してもらう方が確実だろうだろう。
少々待たせても怒らなそうな風貌もあって、そう判断する。
「はい!」
源さんは気分を悪くした様子もなく、すぐに扉を開けて中に入る。ちょっと焦っているみたいなので、転ばないか心配になってしまう。
『なんだか悪いことしちゃったなぁ』
同じことを思ったらしい、男の人も心配そうな声音でそう呟いたのを耳にして、良かったいい人そう、とちょっと安心した。
しばらくして扉が開き、五條さんが顔を出す。その後に源さんも出てきて私の隣へと戻ってきてくれた。
「ヨハン。急にどうしたんですか」
『やぁ五條、同じような扉が多いから迷っちゃってね』
外国人にしては控えめなジェスチャーでヨハンさんは肩を竦めてみせる。親しそうな二人の様子に、素直に通せば良かったな、なんて思ったところで、はたと気づいた。
「……五條さん、今、普通に日本語話してますよね……?」
思わず隣にいる源さんに確認してしまう。
え、なに。ヨハンさんは日本語は話せないけれど聞き取れる、とか? いや、そんなもんじゃなく、ばっちり意思疎通できている感じだ。
「あ、アルもなんですけど、ドラゴンって相手に関わらず自動翻訳されるみたいですよ。逆に皆、同じように聞こえるからそれが何語だとは分からないとか。あ、ドラゴン同士内緒で話したい時は古語? 古い言葉で話すって言ってました」
おおう……さすがドラゴン。ハイスペックと思いきや、便利なのかそうじゃないのか微妙なところだ。いや、でもやっぱりそれでも羨ましい……? そう悩んでいると、源さんが私をじっと見つめていることに気づいた。
「どうしたんですか?」
「あ……。橘さん、英語まで話せるの凄いなぁって感心しちゃって」
「前の会社はわりと外国からのお客様も多かったんですよ」
そして大きな会社だけあって社員の資格制度は充実していたこともあり、受付からの生き残りコースだった秘書資格やらもろもろ取得している。けれど英語は初級だけなので、人様に自慢できるほどでもなく、TOEICの点数はわりとヒドイ。
私の言葉に源さんは、驚いたように目を瞬かせたあと、「……すごいなぁ」と、溜息まじりで感心してくれたので、慌てて首を振る。
「いやいや、日常会話くらいなので、ビジネス英語とかになっちゃったらお手上げですよ。あの人、気を遣ってすごいゆっくり話してくれてましたし」
これは本気で謙遜じゃない。受付には帰国子女がいたので、簡単な日常会話以外はそちらに回していた。
慌てて首を振れば、源さんはふふっと口元に手を当てて小さく笑ってくれて、ほっとした。なんか自慢しぃみたいな感じになってしまったかな、と気になったから。
「源さん、まりもさん。お騒がせしました。このまま私達は打ち合わせに入ります」
「あ、はい。じゃ、行きましょうか」
源さんはそう言って中に入り、私もその後についていく。いつものように更衣室に入り、着替えをしていると、源さんが思い出したように口を開いた。
「あ、まりもさん。今日十一時から市役所に行くので、少し抜けさせて貰いますね。お休みが多くてすみません。その間五條さんが入ってくれるって言ってたので、何か分からないことがあれば、聞いて下さいね」
「はい。有給消費しなきゃいけませんもんね。大丈夫です。ここから市役所って近いんですか?」
あ、でも源さんがこの会社と同じ市役所の管轄の住所に住んでいるとは限らないか。
「歩いたら三十分くらいです。寮がそのすぐ近くにあるんですよ。母子手帳を取りにいこうと思って」
そう言って照れたように笑う源さんに、気持ちがほっこりする。
でも、母子手帳って病院で貰うのかと思っていたけど、市役所で貰うんだ。初めて知った。
それにしても有給かぁ……。
私は取れるものは取ってやろう精神で、完璧に丸々休んだ。逆に源さんの休み方を見ていると、真面目すぎるんじゃないかな、と老婆心ながら心配になる。
だけどそれもきっと慣れない私のためで……。仕事はともかく、ガザ様の相手なんて一人でできる気がしないから、休んでいいですよ、なんて口が裂けても言えない……。使えない後輩で申し訳ない。
着替えを済ませて、受付スペースに足を踏み入れると、見慣れない白さに一瞬目が眩んだ。
「ぅわぁ……これはまた」
「……」
感嘆(?)した源さんの声に、思わず遠い目になってしまう。そのままフェードアウトするには、その存在が大きすぎて、諦めて顔を戻した。
……ガザ様、やりすぎです……。
リビングは以前にも増して、目にも眩しいきらきら空間へと変貌しており、なんだかそこだけ高級ホテルのロビーのような様相を醸し出していた。
そして恐ろしいことに、ソファから机、クッションに至るまで、目に痛いほど真っ白。何故か壊れていなかった照明まで変わっており、キラキラしい輝きを放っている。
高そうな家具を揃えてくるのは予想していたけれど、まさか真っ白だとは思わなかった。え、足を踏み入れられる気すらしないんだけど……何か零したら誤魔化しようがないし。
ただでさえ高そうなのに、二倍使いづらい。……そもそもソファの話をしていたのは昨日の話だ。ガザ様が帰ったのは四時だから、夜中に作業したってこと? 作業員さんの労働環境のブラックぶりに震えてしまう。
クッションまで真っ白なソファに、同じく材質のよく分からない、固そうな白いソファテーブル。下に敷かれた絨毯も毛足が長くふかふかで、触ったら驚くほど柔らかかった。実用性の欠片もない。
「はは、白はさすがに気を遣いますね……」
「申し訳ない……!」
苦笑まじりにそう言った源さんに、もはや平謝りするしかできない。
前のはともかく、昨日あったあの普通のソファセットで良かったのに!
***
そして数時間後。
『いつもの子いないの? なんだもう代わったのか?』
受付の中を覗き込むように屈みこみ、そう尋ねてきたのは、シャツにジーンズというラフな格好をした見た目年齢四十歳くらいの男の人だった。
『いつも有難うございます。源はただ今席を外しております』
源さんは朝言っていた通り、十一時前にアルさんが迎えに来て途中で抜けた。
三時までには戻ってきてくれる、と言ったのは間違いなく私のためだろう。もう足を向けて寝られない。
マイク越しにそう伝えると、あからさまにがっかりされて苦笑する。
いやうん。この方達は私より遥かに年上なので、受付は若い方がいいとかいう類の言葉ではない。故に私の心はおおむね平穏である。
だけど源さんが一旦外出してから、やってくるお客さん全員に聞かれているので、源さんの人望が半端ないということなのだろう。きっと本当にお客さんに好かれているんだよね。
ドラゴン相手に物怖じしないし、何より可愛いし、受付のアイドルって感じだろうか。むしろ代わりがこんなんでスミマセン、って言いたくなるけど。
二、三日しか一緒に過ごしていないけど、確かに源さんは、一緒にいると元気が貰えるタイプの女の子だ。明るいしお喋り以上に気遣い屋さん。……多分本質的なところで聞き上手なんだと思う。私が男だったらおつき合いしたい感じ。
笑顔が儀礼的過ぎで愛想はあるけど愛嬌がない、と言われていた私とは雲泥の差だ。
引き継ぎまでに源さんに、少しでも近づければいいけど、持って生まれた才能というか、そう言うのは確かにあるのだ。
……羨ましい……。
幼い頃から身体が弱いくせに、何かと問題を起こす弟の尻拭いに奔走してきた私。
お姉ちゃんだから、と頼られ続けた弊害か、私は絶望的に人に甘えられない。むしろそういうのがひっくるめて面倒で、それくらいなら全部自分でやるタイプだ。
前はまぁそれで良かったし、私の顔なんて見ていないお客さんも多かったので、どれだけ案件を素早く処理するか、が大事だったけれど、ここはきっと違うのだろう。……表面的な愛想笑いとか見透かされそうだもんね。
やっぱりここは一回死んだと思って、心を入れ替えるべきか。源さんの天然の明るさは無理だとしても、気遣いと聞き上手なところは見習わなければならない。
お客さんをゲートに送り出し、手順通りに手続きを進めて、データを入力しこっそりと溜息をつく。
ちなみに源さんが話してくれた通り、まだ一人では不測の事態に備えられないかもしれないということで、同じ空間……というか少し離れた場所にあるダイニングテーブルには五條さんが、いてくれている。
今のところ特に問題はないけれど、自分の仕事をしつつ控えてくれているので、分からないことがあれば、すぐに五條さんに聞けるから、緊張感はあるものの安心感もある。そんなわけで、特に問題はなく、午前中の業務は滞りなく進んでいた。
そろそろお昼なんだけど……。
ちらりと後ろを向けば、眩いばかりに輝く真っ白なソファセット。座り心地どころか怖ろしくて使ってもいない。なんなら、埃避けにカバーを被せてしまいたいくらいだ。
……というか、今朝聞いて初めて知ったのだけど、前のソファセットはアルさんが用意したものらしい。つまりはアレだ。番の為に仕事場を居心地良くしたいという一心で、ここの部屋のレイアウトは、受付の人が番認定される度に変更されるのである。
真白いソファを目の前に源さんにそう説明されて、もう空いた口が塞がらなかった。
お昼を過ぎても源さんは来なかったので、諦めてダイニングテーブルに向かう。
お弁当をテーブルにおいてから、お茶いりますか? と声を掛けてみる。
お昼は食べなさそうな感じだし、一人で食べづらいので、せめてお茶でもと思う。
「おや、気が利きますね」
そりゃどーも!
なんだか含みのある言葉だと思ってしまうのは、初日のイメージが悪すぎるせいだろうか。
電気ポットてお湯を沸かして、備品のお茶を淹れる。紐で結ばれた筒の煎茶とか緑茶、紅茶もコーヒー豆もあってわりとラインナップは豊富なのである。
無難に緑茶を入れて五條さんの前に置き、その斜め向かい側に腰を下ろした。
お弁当を開いてみるものの、静か過ぎで食べづらい。
いたたまれない空気に何か話題を、と探せば、真っ白いソファがものすごい自己主張をしていた。ちらりとソファの方に視線を向けて五條さんに話し掛ける。
「あの、ソファのお礼状とか送っとけばいいですかね……」
本気半分冗談半分で、溜息混じりにそういえば、五條さんは湯呑みを持ったまま目を瞬いた後、ふっと笑った。
「真面目ですね。まぁ、気にされていましたから、喜ぶと思います」
気にされていた、ねぇ……。むしろもう少し気を遣って顔を合わせない方向を向いてくれないだろうか。
「あ、ここにいた」
ノックもなく突然事務所側の扉が開き、顔を覗かせたのは、怪しいセダムのお兄さん……トモル君だった。
「トモル、ノックくらいしなさい」
「やぁ! 正義の味方セダムのお兄さんだよ☆ まりもちゃんもお久しぶり!」
三日前に会ったばかりなので、お久し振り感は皆無ですが。
眉を顰めた五條さんを気にした様子もなく、こちらに駆け寄ってきた……かと思うと、素通りして例のソファにダイブした。
もちろん靴のまま。見習いたい心臓の強さである。
「おーいいね。コレでしょ、ガザが買ったやつって」
遠慮なく靴のまま胡座をかいたトモル君に、今度こそ悲鳴を上げてしまう。ソレ、ヤバいソファだからね! もう怒られても知らないから!
「なんかお店の人、相当困らせたみたいだよー」
その言葉にブラック家具屋さんのスタッフに同情してしまいそうになる。無理難題ふっかけるガザ様が目に浮かんでしまった。
「トモル、何か用事があるのでしょう」
だけど五條さんは、それには答えずお茶を飲みながらトモル君にそう尋ねた。
「ま、それはもちろん」
トモル君は腹筋で起き上がる。
あろうことかそのまま胡座をかいたので、もう私はそちらを見ないことにした。
いつ足型がついてしまうかと、私の方がそわそわしてしまう。心臓に悪い。
「うーん。まりもちゃんが塩対応って聞いて、ガザがキレないか心配になっちゃてさ。臨時出勤してきた」
え、キレるの。
聞き捨てならないセリフに、ぎょっとして、再びトモル君を振り返ったその時、扉の音と共に、真後ろから声がかかった。
「お疲れ様ですー」
入ってきたのは源さんとアルさんだった。どうやら二人で来たらしい。
「あ、アルも、いっちょんもおはよー」
いっちょん……おそらく、響きからして源さんのことだけど、ノリがもう学生だ。
しかも特に源さんは嫌ではないらしく、「トモル君、久し振り」と普通に挨拶をしていた。そうかこれが若さか。
というか、アルさん、こっち側に来ていいんだ……。むしろアルさんにも、ガラス越しに攻撃されたことがあるのでちょっと怖かったりするんだけど。……ここは源さんの教育を信じよう。
「なにか困ったことありませんでした?」
トートバッグを自分の椅子に置いて戻って来た源さんは、私の隣に座ってそう尋ねてきた。
「あ、大丈夫でした。常連さんっぽいお客さんばっかりでしたし」
「さすが橘さん。もう、私いつ辞めても大丈夫ですね」
みんな、源さんのこと探してましたよ、と言おうとする前に、そう言われて言葉に詰まる。
いや、出来ればずっと一緒にいて欲しい……ほら、一人で仕事が出来るようになっても、休みの時とか困るだろうし。五條さんだって今日の仕事ぶりから察するに、急がしそうだし。
それに何より源さんは多分、辞めたくないんじゃないかなー……条件良いし前の会社に比べたら天国、とまで言っていたし。
多分アルさんを納得できれば産休育休ってことで復帰できるんじゃないかと思うけど……。
ちらりとアルさんの方を見れば、思いきり睨まれていた。こわっ……! ばっと顔ごと逸らすものの、変な汗が止まらない。
うわ、もしかして心の中読まれた!?
口に出さなくて良かった。ガラス越しでもないし、下手したら丸焦げにされてしまうところだった。だけど横顔に刺さるような視線に耐えられなくなって、恐々口を開いた。
「……なにか?」
そう尋ねれば、ふいっと顔を逸らされた。
無視ですか……!
しかも源さんが五條さんと話をしている死角を狙うとか、なかなかやるな! いいもん! 源さんと二人きりになった時に、無視されたってチクってやるから! 完全に虎の威を借る狐ポジションの自分に思うところがないわけではないが、強いものには巻かれる主義なのだから仕方ない!
「お昼は外で食べたんですか?」
「はい。二人でランチしたんですよ」
ランチデートかぁ。ちょっと羨ましい。
そんな素敵なことしたのは、二年以上前なんじゃないだろうか。
それにしてもアルさん普通にお店とか入れるんだね。なんだか美形すぎてきゃあきゃあ言われて――殺人ビームで店内を焼野原にしそうなんだけど大丈夫だったんだろうか。なにそれどこの怪獣大戦争。
「じゃあ一緒にお茶だけいれますね。妊婦さんには玄米茶がいいかな」
「……あ! 私やりますよ!」
「ついでですから」
妊娠初期は結構不安定なのだと、何かで読んだことがあるし、何よりぶすぶす刺さって来るアルさんの視線から逃れたい。
そもそもお茶くみって、新人の仕事だと思うし。
そして聞いてもいないのに、トモル君は紅茶がいいと言い出し、五條さんはコーヒーをリクエストしてきて、ちょっといらっとする。統一する優しさくらい持とう! ドラゴン世界は知らないけれど、人間世界の社会生活に協調性は大事だからね!
内心憤りながらそれぞれカップに入れる。
面倒なのでどっちもインスタントにしてやった。
ふふん、ささやかな反抗である。アルさんは聞いていないけど、源さんとお揃いがいいとか言い出しそうだから玄米茶。
それだけはちゃんと袋の分量通りに入れて、まとめてダイニングテーブルに持っていく。それぞれお盆に手が伸びて持って行ってくれた。
最後に手を伸ばした源さんが、私と目が合うと小さく会釈する。
「有難うございます」
そう控え目に笑った源さんに――少し違和感を覚えて、首を傾げる。
……何となく元気がない、よね?
市役所に行くの疲れたのかな? 今朝も感じた違和感を思い出して首を傾げると、源さんは「なんですか?」とにっこり笑う。気のせいかな? と考え直したところで、いつのまにかテーブルの側まで来ていたトモル君が源さんに話しかけた。
「そういえばさー、いつ子供の性別が分かるのー?」
「えっと、六カ月くらいみたいですよ」
「へぇ楽しみ! いっちょんに似た女の子だったらいいなぁ」
それは心から同意したい。
外見は旦那さん寄りでも大丈夫だけど、中身はぜひ源さんがいい。赤ちゃんか……産まれたら抱っこさせて貰えるかな。
五條さんも休憩を取ることにしたのか、名前候補なんかをアルさんに聞いたりなんかして、赤ちゃんのことで盛り上がる。
私もお弁当を食べながら、ちっちゃい紅葉のおててを想像したり、頷いたりして、なんというか、わいわいやっているこの雰囲気を、懐かしく思ってしまった。
まだ前の会社で、同期がいっぱいいたころの食堂みたいなノリ。源さん以外はみんなドラゴンだというのに、自然と口も、軽くなる。まぁアルさんも五條さんもトモル君も初日以外ドラゴンっぽいところは見ていないから余計なのかも。そしてなんだかんだとお弁当を完食し、馴染んでいる自分。
気遣いの人である源さんが差し入れしてくれたクッキーを頂きながら、案外居心地が悪くないことに気づいてしまった。
もちろん同じ人間で先輩でもある源さんがいてくれる事が何より大きいと思うんだけど……最初ほど、ここで働くことに抵抗を感じなくなっている自覚はあった。
だってどう考えても、同じ条件で働かせてくれるところなんてないと思うんだよね。お客さんがドラゴンって言っても、来る人は、一部を除けばみんな人間にしか見えないし、何より分厚いガラスの壁が私を守ってくれている。
「まりもちゃん、何難しい顔してんのー?」」
「え。いえ」
トモル君がひとさし指を私のおでこに向けて笑う。どうやら皺が寄っているらしい。考え込むとここに皺が寄るのは子供の頃からの癖なのである。
だけどトモル君はそれ以上突っ込んではこず、手にしていたクッキーを何を思ったか、アルさんに向けた。
「はい、アル、あーん」
「気持ち悪い真似はよせ」
にっこり笑って差しだしたトモル君に、アルさんはひくりと小鼻を動かして、嫌そうに顔を背けた。けれど。
「アル、美味しいよ」
源さんがそう言った途端「そうか」なんて言って、いそいそと源さんの真後ろにぴたりとくっついた。そして源さんが手に持っていたクッキーを強請り、「あーん」してもらってる。幸せそうでなにより。アルさんだけ爆発しろ。
「ヒドイっ。トモコのクッキーは食べられないの!? この浮気者! ピチピチの若い子がいいのね!」
そして突然始まるベタベタなトモル君劇場。
見た目は逆なんだけど、実年齢からみれば正しいので、妙にシュールである、
「トモルやめてください。貴方がアル相手に給餌行為をするなんて鳥肌が立ちます」
給餌行為って愛情表現の一つなんだっけ。よくある人外小説を思い出しながらそう思う。わりと好きなジャンルだったけど、今は読む気になれない……早々に新しい癒しを見つけなければ……。
わざわざ再開していた仕事の手を止めて五條さんは思いきり顔を顰めた。その心の底から嫌そうな表情に、思わず吹き出してしまう。
ひとしきり笑ってふと顔を上げれば、トモルくんと五條さんが驚いた顔をして私を見ていた。
「え?」
思わず戸惑って身体を引けば、トモル君はパッと笑顔を作った。
「ごめんごめん。まりもちゃんが笑ってるの見たの初めてだったから、つい凝視しちゃった。慣れてくれたってことだよね!」
トモル君はテーブル越しに、私の両手を掴んで、ぶんぶん振る。
「喜ばしいことですね」
五條さんも同じことを思ったらしい。付け足すようにそう言って眼鏡のフレームを押し上げた。いつもよりほんの少しだけ、優しく笑う。
え、……笑ったことなかったっけ?
「あ、そういえばそうかもしれないですね。私もまりもさんが、声を立てて笑うの初めてみたかも」
源さんの言葉に、アルさんまで私に視線を向ける。みんなの視線が私に集まったのが分かって、急に顔が熱くなった。
……あんまり見ないでほしい。
「わっ! 顔真っ赤だよ。まりもちゃん、意外にウブ! ギャップ萌えってやつ? あーガザいたら喜んだろうなー」
余計なお世話だし、ギャップ萌えなんか狙ってないから!
しかも空気が居たたまれない!
なんだか初めて一人で立った赤ちゃんをみるような、そんな感じの視線に私は知らんふりして、お茶のお代わりを取りに行ったのである。
――結局そのままお昼休憩は終了しても、五條さんはそのまま仕事を続けて、トモル君は受付の近くでスマホのゲームで遊んでいる。アルさんだけは一番遠いソファに転がっていて、じぃっと源さんを見つめていた。
源さんに『アレ気になりませんか?』と聞いたら『馴れますよ』と笑顔で言われて、やっぱり源さん強い、と心の中で師匠と呼ぶことにした。私がその域に到達するのはいつになるんだろうか。
そして午後四時―。
私の中で不吉な時刻になりそうな、あの時間がやってきてしまったのである。
明日20:00続き更新します!