第93話 北勢
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◇1567年 8月末
伊勢国 北伊勢地方
高岡城 織田軍
稲葉山城を攻略した織田軍はその余勢を以って電撃的に伊勢へ侵攻。
予想外の侵攻に抵抗出来るような勢力は無く、織田軍は寺社仏閣を次々と焼き払い桑名に本陣を構え、大きな兵力を動員する事が難しい諸勢力に対して圧力をかけた。その圧力に屈する形で北伊勢の諸勢力は次々と織田の軍門に下る。
そんな中、勇敢とするべきか無謀とするべきか、いくつかの勢力が織田に対しての抵抗を試みた。
特に頑強な抵抗を見せたのは高岡城。
伊勢の名門神戸氏に仕える家老山路弾正が篭るその城は、城門を固く閉じ、滝川一益による降伏勧告を跳ね付けると徹底抗戦を開始。城兵の士気は高く、織田軍の攻撃を何度も撃退せしめていた。
さらに山路は織田軍の後方撹乱を試みる。
攻略したばかりの美濃の諸勢力に対し「今こそ織田信長を討つべし」と書状を発したのだ。当然ながらこの書状は美濃三人衆の元にも届き、美濃三人衆は揃ってこれを信長に報告。
直ぐに美濃で兵を挙げるような無謀な勢力は存在しないが、戦が長引けば情勢が不安定になるという危機感を抱かせた。
更に決め手となったのは『武田が伊勢の求めに応じて美濃へ侵攻を開始する』という、山路が流した虚報だった。
稲葉山を落として間もない織田軍は、美濃を経由する形になる対武田への情報網に若干の不安を拭いきれていない。同盟など、裏切りが世の常となっているこの時勢では意味を成さない事も珍しくないという不安もある。
情報の正否はともかく、信長としては最も手堅い選択をしなければならない状況に陥った。美濃を失うような事態になっては元も子もないのである。
そして何より、間もなく稲刈りの時期となる。
珍しく農兵を動員して未曽有の大兵団を率いている織田家は、他家同様にこの時期には兵を引かねばならない。
「稲葉山へ戻る!」
織田信長という人物が将として優れている点は幾つもあるが、一際目立つのが決断の速さであろう。
様々な状況や小さな損得勘定を抜きにして、大切な部分を得る、大切な部分を失わない、その結果に対して最も合理的な選択を瞬時に決断する。場合によっては徹底して逃げる事さえ珍しくない。
対武田外交が徹底した低姿勢だったように、そこに明確な目標が存在するのであれば、この将は恥も外聞も無く徹底できる強さを持っているのだ。
「一益、桑名を押さえておけ、ここは楔ぞ!」
「ハッ!」
滝川一益に桑名の守備を一任すると、信長は全軍に対して撤退の命を下した。
(まずはこれでよい)
稲葉山城を僅か半月で攻略し、電光石火の如く北伊勢へ侵攻しては、その殆どを次々と傘下に組み込む事に成功した。この行動は当然のように周辺諸国に危機感を抱かせ、同時に畏怖の念を抱かせるであろう。
当初の目的は達成したと言って良い。
(遅い。早うせねばならんのだ)
信長は大きな達成感を抱くも、伊勢を出来うる限り迅速に支配下に収めるには武力という手法では限界があると感じていた。
桑名を滝川一益に任せた織田信長は、侵攻時と同様に疾風の如き速さで稲葉山城への撤退を開始。しかし、その電光石火の撤退に取り残される部隊が存在した。
最前線で敵の城砦を包囲していた部隊である。
織田軍という独特の組織は、総大将が撤退したところでその末端の各部隊が統率力を失う事は少ない。そこから先の結果については、家臣の自己責任という概念が存在しているのだ。
自己責任という事は勿論、良い結果も悪い結果も自己の責任である。そうであるが故に個々の部隊は統率力を保てるが、そうであるが故に総大将である信長もあまり気を使わない。
戦場に限らず、あらゆる場面においてある程度の判断を家臣に一任する信長独特の組織運営は、織田家が拡大していくにつれ、いずれ軍団制という新しい組織体制を構築していくに至るのである。
この日、高岡城を包囲していた部隊もまた、他の城砦を囲んでいた部隊と同様、敵の目の前に取り残された中で撤退戦を強いられる状況に直面していた。
「まずは桑名まで引くぞ!」
激戦地となっていた高岡城の包囲部隊の大将を任されていた美濃金山城主森可成は、配下に速やかな指示を出すと兜を装着し、自らも槍を振るう覚悟を決めた。
「ここに残った事、後悔なされるなよ」
そう言いながら、信長からの撤退命令を伝えに来た一人の男を見据えた。
「森様と共に槍を振るえるならば、なんのこれしき」
そう答えてニヤリと笑ったその男は、森とは真逆に兜を脱ぐと、槍を捨て、言葉を続けた。
「されど、槍を振るうは最終手段ですな」
言うなりその場を立ち去ろうとする男の真意を測りかねた森は、目を丸くして驚くばかりで声をかけられずにいた。
「森殿、撤退の前に一働きして参ります故、しばしお待ち下され」
男の目には、覚悟を秘めた輝きがある。
(何をする気じゃ……)
森はその男の不思議な行動に、やや懐かしい感触を覚えた。
それは自らが長年仕えてきた織田信長と同じような、どこか人間離れした空気を漂わせているからである。
「金田殿! 差し支えなければ同行させて頂きたい」
それは金田を疑った訳でも、監視をする目的でもない。
純粋な興味からである。
「あひゃひゃひゃ、そんな大層な事ではありませんよ」
笑いながらそう言いながらも、動作では森の同行を促していた。
「稲葉山に帰るのであれば、山路殿にその挨拶をしに参りましょう」
「なんと!?」
同行すると言ったはいいが、まさかそのような話しだとは想像もしていなかった。
(……行くと申した以上は、行くか)
森は一つの覚悟を腹に落とすと、自身も兜を脱ぎ槍を捨て、足早に敵城へ向う金田の後を追った。