第82話 煙
■1567年 8月4日夕刻
飛騨国
大原村 石島屋敷
「殿、薬湯の刻限で御座います」
陽が差し出してくれた薬湯は、ハッキリ言って不味い。
受け取った薬湯を我慢して一気に飲み干すと、直に横になり、薄い布団を頭からかぶる。
今、俺に出来る事は何もないのだ。
正直に言えば、拗ねているだけなのかもしれない。この絶望に近い結果を受け入れて、前向きな活動に全力を注げる程、俺は立派な人間じゃない。
元々、なんで俺が当主なんかをしているのだろうか。
(やりたいなんて言った覚えはない)
伊藤さんがそうなるように事を運んだ、それだけだ。誰とも話したくないし、何もしたくない。
傷は確かに痛いが、そんな事はどうでもよく、俺はどうしても納得がいかないのだ。
(なんで……伊藤さん、なんでだよ)
そんな事を思って涙を流してばかりいる。もう、二日目だ。
俺達はボコボコにやられてしまったようだ。
先月末、ここを出る時は六百人もいた頼綱さんの兵は、大原に到着した時は僅かに百名程度だったそうだ。
その後で遅れて到着する人達もいたようだが、未だに百五十名に届かないらしい。
負傷していた金田さんは、その負傷をもろともせず、逃げる味方を鼓舞しながら走りぬいた。運ばれていく俺の側で、常に後ろを気にしながら、一人でも多く逃げられるように踏ん張ってくれたらしい。
今日の朝、桜洞に戻る直前の頼綱さんがやって来て、金田さんをべた褒めしていた。それ以外にも、敵の情報とかいろいろと報告を受けたのだが、全く頭に残らなかった。
もう、全てが嫌なのだ。
(つーくん……伊藤さん……)
悔しい、とにかく悔しかった。
自分の非力さが。
何もできない自分が恨めしい。
もし、つーくんと伊藤さんが無事に戻ってきてくれるのであれば、俺は何でもやる。立派な当主になれと言われれば、絶対になってみせる。
でも。
二人が戻らないなら、もう何もしたくない。
(こんな時代……嫌だよ……)
何度も何度も同じ感情しか沸いてこない。
もう、嫌なんだ。
――――――
――――
――
「どんな選択でも、自分を信じて選ぶ事! 頼むよ石島くん!」
(無理だよ伊藤さん……自分を信じるなんて無理だよ)
――――――
――――
――
――ドカドカドカドカ
すごい足音だな。
知ってるよ。
襖を開けて米を投げてくるんだろ?
――――――
――――
――
「殿、殿!」
(煩いな、陽はどこいったんだろう)
「殿、お目覚めください! 殿!」
(ん? 夢?)
「殿!」
目を開けると、そこには十三くんがいた。
「あ、ああ、ゴメン、寝てたや」
体中痛いが、そんなのたぶん、皆同じだ。
「お休みの所、申し訳ございません。お急ぎ村へ!」
そう言って俺の腕を掴むと、持ち上げるようにして起き上がらせた。俺の身体の状況を知らない十三くんではない。
何故そんなに急がせるのだろうか。
もたもたしている俺に、十三くんが怒鳴り気味で声をかけた。
「お急ぎ下さい!」
とにかく右肩と左の太ももが痛い。歩けるかどうか微妙だった。
「そんなそんな、とりあえず何があったのか教えてくれない?」
俺は興奮気味の十三くんを宥めながら、状況次第では無理やりにでも動くべきかもしれないと、少しだけ覚悟を決めた。
その時、廊下からドタバタと走る音が聞こえてきた。
(ああ、さっき夢の中で聞こえたのはこの音か?)
足音は俺の寝ている部屋の前で止まる。
その方向を見てみると、そこには優理の姿があった。
(優理、大丈夫かな、元気無いんじゃないだろうか)
「来て!」
その優理の声は凛としていて、特に元気が無さそうでもなかった。
(なんだよ……元気じゃんか)
「西の山間より煙が立ち昇っておるのです!」
何があったのか教えてくれた十三くんは、相変わらず興奮気味だった。
「ん? それがどうかした?」
正直さっぱり分からない。
「伊藤様やも知れませぬ! 何の煙か確かめに行かねば!」
「んな馬鹿な。伊藤さんが何のために? まあ止めませんよ、確かめて来て下さい。わかったら教えてくださいね?」
煙が伊藤さんだなんて、幻想もいいところだ。
大騒ぎしすぎだろう。
そんな事を考えた僅か二秒くらいの間に、優理が俺の目の前まで足を進めてきた。
次の瞬間、俺の顔面は思いっきり右方向に吹っ飛んだ。
顔の左半分が痛みと熱でじんじんする。耳鳴りが左耳を占領して何も聞こえない。
「綱義くん行こう。大丈夫、綱義くんなら出来る!」
優理の声がする方を、見ることが出来ない。
頬の痛みと、耳鳴りと、右肩の痛みと、左足の痛みと。何より、心の痛みが、俺の身体を硬く、硬く、まるで石像にでもなったかのような重さだった。
「しかし……くっ、畏まりました」
十三くんが何かを承知したようだ。
二人が廊下を進み、この部屋を離れていく音がする。
直後、唯ちゃんの声が聞こえてきた。
「無茶です! 金田さん無茶です、やめて下さい!」
「無茶も麦茶もあるか! ここで諦めたらゲームセットなんだよ!」
歩いているにしては妙な足音がする。
「金田さん! ……美紀ねぇ、金田さんを止めて!」
唯ちゃんの声には涙が混ざり、最後はもう悲鳴に近かった。
程なくして、美紀さんの声が聞こえてきた。
「金田さん、そのまま匍匐前進で村まで行く気ですか?」
「そんなん関係ない、行くったら行く! んがぁぁぁ!」
妙な足音はそのせいか。
「しかも片手で匍匐前進じゃなかなか進まないですよ?」
美紀さんは金田さんを説得しているらしい。
「片手が動きゃ十分っしょ! 金田健二、ここで動かなきゃいつ動くって感じなわけ!」
「ったくもう、ほら」
「み、みきちゃん」
「重っ、この貸は必ず返してもらいますからねっ!」
「おう、すまねぇ!」
(なんだろう……金田さんそんなにしてまで何処に行くんだ?)
流石に気になり始めた俺は、動かない体をどうにか起き上がらせる。
「洋太郎様!」
廊下から陽が顔を出した。
「陽、何があったの? 知ってる?」
とにかく、いくらなんでも説明も無しにビンタされて少しだけ腹が立ってきた。
陽は部屋に入り、起き上がろうとしている俺を助けながら、何が起きてるのかを教えてくれた。
「ただ、西の山間から煙が立ち昇っているのです。それ以外は特に何も」
「それだけ? ほんとにたったそれだけ?」
「はい」
(なんなんだよ)
本当に腹が立ってきた。
陽は心配そうに俺を気遣いながら、言葉を続ける。
「何の煙か分からないそうです。村より西の山々に人は住んでいないそうで」
(人がいないのに煙?)
「山賊なのか、敗残兵が野盗と化しているのか、敵軍なのか」
陽は少し心配そうに言いながら、俺を抱きしめた。
「陽は……洋太郎様が生きて戻られて本当に良かったと思うております」
少し涙ぐみながら、俺からそっと離れる。
「されど、洋太郎様、兄上が桜洞に戻られてから、村は三度も敵兵の襲撃を受けております。どうか今少し、ご奮起ください」
「え?」
初耳だった。