第70話 まず味方から
■1567年 7月31日昼
美濃国
吉田川東岸 石島軍
朝になると、陣は静かな焦りに包まれていた。
その影響もあり、伊藤さんに促されたお勝ちゃんは身なりを整えると、早々に他の子達と共に村に連れ戻されてしまった。
本当は昼餉くらいまでゆっくり過ごしたかったのだが、ここが戦場であり、尚且つ俺達は重大なピンチに遭遇しているのだ。
「くそう……油断した」
昼餉も手に付かない様子の金田さんが、本当に悔しそうにしている。別に金田さんは悪くない、しいて言うならば、油断したのは頼綱さんと伊藤さんだろう。
どうやら敵のスパイと思われる人物が、頼綱さんに毒の入った酒を届けたらしいのだ。
異変に気付いた伊藤さんがそのスパイを見破り、頼綱さんの部下の方が逃げようとしたスパイを斬り殺したらしいのだが、その時には頼綱さんはもう倒れていたとか。
この事実はすぐに伏せられ、その場にいた人間には硬く口止めが言い渡されたそうだが、そんな閉口令など行渡るわけがない。
噂は直に、味方中に知れ渡ってしまった。
「具合悪そうでしたね、頼綱様」
つーくんが頼綱さんを心配している。
先程、俺達は自綱さんのお見舞いに行ってきたのだが、頼綱さんは起き上がる事も出来ず、声を出すのも辛そうな状態だった。
「問題は姉小路軍の士気が駄々堕ちって事だな」
金田さんが悔しそうに地図を睨みつけている。俺達が築いた防衛陣は広く、姉小路軍抜きでは到底守りきれる陣ではない。
そうなると、俺達の兵と別所さんの兵だけでこの付城を守る事になるわけだが、急ごしらえの、斜面に柵を立てただけの防御施設など、そう長く持ちこたえられる物ではない。
「別府さんの動向も気になりますね」
俺の不安は別府さんだ。
あの人はどうも信用できない気がしてならない。
それに頼綱さんの様態も気になって仕方がない。
「俺、もう一度見に行ってきます」
頼綱さんは本陣の裏手に設置された新しい寝所に隔離されているが、俺は比較的自由にお見舞いにいける立場だ。
そこは姉小路軍の方達が厳重に警戒態勢を引いている。
俺が近づくと、中から別府さんが出てきた所だった。
「これは大将殿、昨晩と比べて状況は良くなっておりません。これはどうにも旗色が悪いですな」
別府さんは一言だけを残し、軽く一礼して自身の陣所に戻って行った。
(別府さん、昨日の夜も来てたのか)
どうしても疑いの目で別府さんを見てしまうが、その背中は老人その物で、頼りなく小さく見えた。
(ま、大丈夫か)
俺は根拠のない安心を持ち、頼綱さんの寝所を護衛する屈強なオジサン侍にお辞儀しながら中へと足を踏み入れた。
頼綱さんのために作られたその寝所に入ると、中には伊藤さんがいた。
「失礼します」
俺は一声かけて奥へと入る。
「お、殿、別府さん戻った?」
伊藤さんはかなり小声で俺に話しかけてきた。
(頼綱さん寝てるのかな? 起こしたら悪いしまた後で来た方がいいのかな)
そんな事を考えながら、俺は伊藤さんに「はい、戻りました」と同じく小声で答え、頼綱さんを見る事が出来る位置まで接近した。
その瞬間。
「ぐう! 難儀な事よ!」
寝ていた頼綱さんが声を上げると、体を起こして辛そうにしている。
「義兄上、起きても大丈夫なのですか?」
俺の心配に、頼綱さんと伊藤さんが小さく笑った。
「すまんな、洋太郎殿。伊藤殿にせっつかれての、無理やり芝居をしておるだけじゃ……しかし寝てばかりでは背中が痛い」
「へ?」
目を丸くしている俺に、頼綱さんは軽く笑いながら声をかけてくれた。
「起きても大丈夫とは面白き事よ、はっはっは」
意味が分かっていない俺が頭に「?」を浮かべていると、代わりに伊藤さんが会話を進めてくれた。
「あの様子、別府殿は何か手を打たれたでしょう。よい時間稼ぎになりそうです」
伊藤さんは言いながら、頼綱さんに頭を下げた。
俺にはこのやり取りがさっぱり分からなかったが、とにかく頼綱さんが思ったよりも元気そうでほっとしている。
「敵を欺くにはまず味方からと言うが、正にそのようになっておるな」
頼綱さんは楽しそうに俺を見ている。
(もしかして……芝居って、全部?)
ずいぶんと手の込んだ事をすると思ったが、どうやらスパイが入り込んで毒入りの酒を勧めた所までは本当らしい。
最初からその商人を怪しいと思っていた伊藤さんは、酒を頼綱さんに勧めた所でその商人を問い詰めて看破。慌てて逃げるそのスパイを、頼綱さんの右腕ともいえる矢島さんというオジサン侍が一刀両断にしたそうだ。
そしてその時に、伊藤さんが「倒れてくれ」と頼綱さんを口説き落とし、頼綱さんは倒れてしまった。
もちろん毒入りの酒など飲んでいないわけだが、それを知っているのは伊藤さんと頼綱さんと矢島さん、そして飲ませようとした張本人だけである。
しかしそのスパイ本人が死んでしまっては、頼綱さんが飲んでいない事など誰も想像していない。
「今日はこれだけで乗り切れそうですね」
伊藤さんは満足そうに笑顔を作ると、「少し寝てきます」と告げて頼綱さんの寝所を後にした。
「伊藤殿には誠、感服するばかりじゃ」
頼綱さんは立ち上がって背筋を伸ばし、運ばれてきた昼餉に手を付け始めていた。
「そうですね、本当にその通りです」
俺は頼綱さんに同意しながら、ある欲求に駆られていた。
(戦が終わったら全部教えてもらおう。おさらいを話してもらわないとこっちが成長しないや)
この時代に残ると決めた時の話のように、伊藤さんが考えてきた事を全て教えて貰いたくてうずうずしてきた。




