②西遊記
今回はタクラマカン砂漠の気候について語っています。
他にもタイトル通り、西遊記に登場する山も紹介しています。
「呆れた。倒れるはずだよ、それじゃあ」
マーシャはオーバーに嘆きながら、フライパンをシンクの水に浸ける。
「おかしいなとは思ってたんです。時々、砂漠の中にお花畑が現れるし」
「夜はどうしたんだい? 冷えただろうに」
心配でじっとしていられないマーシャは、質問しながら身を乗り出す。鍛えた二の腕にのし掛かられたカウンターが、ぎちぃっと朽ちた吊り橋のように軋んだ。
「新聞紙とか段ボールとか落ちてたので、それを。身体に巻くと結構暖かいんですよ」
少女は後ろを向き、スチール製のゴミ箱を指す。
半分開いたフタからは、先程まで身に着けていたゴミ袋がはみ出ていた。
「あれも砂漠で拾ったんですよ」
「本当に逞しい子だねえ……」
感心する以上に呆れてしまったのか、マーシャは深く溜息を吐く。
四六時中暑そうなイメージに反し、夜の砂漠は非常に冷え込む。〈ロプノール〉周辺では、平均して一五度ほども日中より寒くなる。特に凄まじいのが一〇月だ。日中は二〇度以上にもなるが、夜間には一度前後まで気温が下がってしまう。
余談だが、寒暖差の激しさに付いては、夏と冬にも同じことが言える。
世間一般的なイメージ通り、七月や八月は余裕で三〇度を超える。にもかかわらず、真冬には最高気温が零度を切ってしまう。他方、砂だらけの見た目通り空気は乾いていて、蒸し暑さはない。日陰にいれば、真夏でも快適に過ごすことが出来る。
とは言え、砂漠の暑さを甘く見るのは危険だ。
特に〈ロプノール〉北方の〈トルファン〉一帯では、真夏を迎えると共に最高気温が四〇度前後にまで上昇する。無策で立っていれば、熱中症に罹るのは必至だ。それどころか〈トルファン〉に「火州」の異名を与えた酷暑は、簡単に人の命を奪うだろう。
真夏、〈トルファン〉の東にある火焔山周辺では、地表の温度が六〇度にも達する。灼熱の大地から立ち上る陽炎は、東西一〇〇㌔、南北一〇㌔にも渡って続く大山を揺らめいているように見せてしまう。赤茶けた山肌が揺らめく様子はまさに燃え盛る炎で、「火焔」と言う名の由来にもなった。
火焔山は炎に包まれた山として、かの有名な「西遊記」にも登場している。強風を起こす芭蕉扇を持った孫悟空が、天竺への旅路を阻む猛火を吹き消す場面は、多くの人が知っていることだろう。
火焔山に炎を重ねた中国の人々に対し、現地にはそれが龍の死体だと言う伝説が残っている。赤茶けた山肌は龍の血によるものだそうで、ウイグル語ではずばり「赤い山」と呼ばれている。
「にしても、そうほいほい段ボールやら新聞紙やらが落ちてるのは問題さね。つい一週間前、町会のみんなで掃除したばっかだってのに」
「都会の奴らには他人事なんだよ。私たちが皆殺しにされても構わないんだ」
「またこの子はそんな言い方をして」
タニアを諫め、マーシャは顔を顰める。
「事実じゃん。砂見だー、天体観測だーって理由付けてるけど、ホントは馬鹿騒ぎしたいだけ。自分たちさえ楽しければオールオッケー。近隣住民が騒音で寝不足になっても、ぜーんぜん気にしないの」
「口が悪くて済まないねえ。本当はいい子なんだよ。ただ最近、反抗期気味でねえ」
タニアの斜に構えた発言を謝罪し、マーシャは少女に頭を下げる。少女はチャーハンの皿にレンゲを置き、気にしてないとばかりに微笑みを浮かべた。
「判ります。あのくらいの年頃の女の子って、ワニガメさんなんですよね。私も社会的成功者とか、若くて才能のある人とか、目に付くもの全てに噛み付いてたっけ。地元じゃ『南小のバラクーダ』って呼ばれてました」
申し合わせたようにマーシャと少女の視線が重なり、二つの顎がしきりに上下する。過剰に優しく、鬱陶しいほど包容力溢れる表情は、生まれたばかりの仔鹿が立ち上がるのを見守っているかのようだ。
「理解ある大人ぶるな! そこの二人!」
居心地の悪さが極限に達したタニアは、遠足で見たキマイラを意識し、がおーっ! と吠える。だが猛獣に威嚇されたはずの二人組は、口元を覆い、くすぐったい笑みを漏らすばかり。一も二もなく悲鳴を上げ、檻の前から走り去った誰かとは大違いだ。
なぜ変に皮肉っぽい態度を取った?
同年代の少女の前で大人ぶりたかったのか?
罵倒とも後悔とも取れる声が頭の中を飛び交い、顔がかあっとなっていく。あともう少し膝の力を抜いたら、部屋に駆け込み、布団に顔を埋めてしまうだろう。
「も、もういいもん! 勝手にすれば!」
憶えてろ! 的な口調で宣言し、タニアは二人に背を向ける。敗走と呼ぶにはごくごく短い距離を駆け抜けると、タニアはカウンターの椅子に腰を下ろした。
真っ赤な顔を隠す意味を込め、何やかんやでお預けを食らっていた月メルを広げる。すると巻頭カラーの〈乙姫〉さまが、スクールライフ全開の爽やかな笑みで出迎えてくれた。
どこかの小汚い行き倒れに、段ボールハウス的なイメージを刷り込まれていないだろうか?
ふと不安に駆られたタニアは、月メルに顔を寄せてみる。
幸い主線の掠れが見て取れる距離まで近付いてみても、ブルーシートの集落や、ローションの幻影はちらつかない。力の限り表紙を嗅ぎ、〈乙姫〉さまを吸い寄せると、いつも通りインクの臭いが鼻に流れ込む。危ないところだったが、何とか汚染されずに済んだようだ。
「で、アンタは……えっと、名前は何て言うんだい?」
「あ、私はハイ……」
一体、何があったのだろう?
ハキハキとしたお返事が唐突に途切れ、少女の視線が一瞬、月メルに流れる。同時に少女の肩が小さく跳ね、親の仇のように握っていた箸が手の平から滑り落ちた。
詰まっていた米粒でも呑んだのか、少女の喉がゴクリと波打つ。少し遅れて、間抜けに開いたままだった口が、腹話術の人形のようにパクっと閉じた。
「はい、そーです! クロ……いいえ、シロ! そう、私はシロって言います!」
大きな声で――そう、鼓膜に押し付けるように名乗り、少女はけたたましく手を叩く。自己啓発セミナー臭のするキラキラした笑顔が、完璧過ぎて逆に胡散臭い。
「……シロ?」
自分に尋ねるように呟き、タニアは眉を寄せる。どこかで聞き覚えがあると思えば、マツさんが二年前まで飼っていた雑種ケルベロスの名前だ。
「シロちゃんは何でまたこんな辺鄙なところに? 砂見かい?」
「あ、いえ、私はただ砂漠を通り抜けようとしただけなんです」
答えながらレンゲを取り、シロはラーメンのスープを掬う。琥珀色の液面に小さく波紋が走り、青々したワカメを幽かに揺らした。
鰹節と鶏ガラをベースにした昔ながらの味は、町工場の皆さんにも大好評だ。ランチタイムには作業服と言う作業服が背中を丸め、ふぅふぅやっている。
タニアはつくづく思う。
たった四五〇イェンで丼とのにらめっこ大会を開催してしまうマーシャは、三つ星レストランのシェフなんかよりずっと凄腕だ。と言うか、A5ランクの牛肉やら天然物のマグロなんか使っていいなら、素人にだって絶品が作れる。きっと、たぶん、恐らく、革靴のようなトンカツを揚げる自分にでも。
「何も好き好んで砂漠を通らなくてもいいだろうに。少し大きな街に行けば、〈列船〉があるじゃないか」
「その、お金があんまり……」
気まずそうに懐具合を明かした途端、シロの表情が固まる。温かくはなさそうな汗がシロの頬を滴り落ち、半分出ていたナルトが口の中に隠れていく。
「お金、ないんだった」
シロは呆然と呟き、テーブルを埋め尽くす大量の料理を見回していく。小刻みに震え始めた手は、少しずつスカートのポケットに忍び込んでいった。
おずおずとポケットから出て来た拳が、テーブルの上で広がる。
チャリン、チャリンと転がり落ちたのは、数枚の硬貨だった。
銅製の一〇イェン玉が三枚、
中央に穴の空いた五イェン玉が一枚――。
計三五イェン。
ラーメン代を払うどころか、週間少年ジャンピオンも買えない。