⑤Xの悲劇
これは、罰だ。
ミューラー家に担ぎ込まれた翌日、日の出と共に旅立とうとした〈荊姫〉は、玄関で待ち構えていたマーシャに取り押さえられた。
不幸な偶然? 厳重な監視をかい潜り、〈詐連〉を出奔した〈荊姫〉が、素人を出し抜けなかったとでも言うのか。
そう、邪魔さえ入らなければ、朝日にしか見られずに出て行けた。だがいざ即席の寝室として使わせてもらっていた台所を出ようとすると、目の前に立ち塞がった。自分の他にも誰かが座っている食卓が。ねだらずとも返って来る言葉が。
さっさと出て行け……!
窓に映った鏡像に睨み付けられた時には、もう遅い。悪知恵の働く〈荊姫〉は、抜き足差し足忍び足を演じつつ、しっかり床板を踏み鳴らしている。
段差に躓いたんだ……!
大袈裟に腕を振り回し、窓の鏡像に自分にアピールし、〈荊姫〉はテーブルに手を突く。途端に醤油差しや小皿が倒れ、目覚まし時計のように甲高い音を鳴り響かせた。
ミューラー家の人々と交わす言葉が多くなるほど、玄関との距離は開いていった。顔馴染みの表情が増えるだけ、過分な厚遇を責める声は小さくなっていった。
挙げ句、四日目に選んだのはタヌキ寝入り。
本当は少しずつ白んでくる瞼の裏に、夜明けを言い渡されていた。にもかかわらず、階段を上り下りする足音も、食堂の喧騒も聞こえないと自分に強弁し、マーシャに肩を揺すられるまで寝床に引きこもっていた。
なぜ罰が下る前に出て行かなかった?
温かかったのだ、誰かの手が。
クリスチャンの死後、〈荊姫〉は足に連れられるまま世界中を徘徊した。
膝が身体を支えられなくなれば横になり、お腹が減ったら口に入るものを呑む。誰かと会話するどころか独り言も吐かず、他人はおろか鏡の中の自分とも目を合わせない。〈荊姫〉には予感があった。何かの間違いで人でなしが笑みなど漏らせば、今より更に強く星々から糾弾されると。
日に日に〈荊姫〉の世界は暈けていった。
目の前に原色の花畑が現れても、〈荊姫〉の目に映るのは濃淡のうるさいモノクロ。パンは噛み切りやすい脱脂綿のようで、バターの甘みも小麦の香りもない。
砂漠の日差しに乾かされた身体が独りでに崩れた時も、〈荊姫〉は逆らわなかった。
足をマメだらけにして彷徨っても、天の川が寡黙だった頃に戻る方法は見付からない。水平線しか見えない場所に逃げ込もうが、氷の大陸に閉じこもろうが、偏執的な星々は追って来る。
なまじ生きようとするから、いつまでも夜空からの監視にびくつかなければいけないのだ。ひと思いに死んでしまえば、一瞬苦痛を味わうだけで済む。
旅路の果てに導き出した答えに身を委ね、〈荊姫〉は自分から砂に埋もれるように俯せる。徐々に呼吸の間隔が広がり、寝息に似たリズムが〈荊姫〉の瞼を下ろしていく。その最中、風と砂が踊るばかりだった視界に、アルハンブラの手が紛れ込んだ。
目を閉じろ!
お前に誰かの手を掴む資格はない!
胸の中から響き渡る正論に従えないでいる内に、アルハンブラは〈荊姫〉の手を取る。
久方ぶりに握る誰かの手から、ぽかぽかとした感触が広がっていく。弱々しかった鼓動が力を取り戻すにつれて、白黒だった太陽は山吹色を滲ませていった。
目を眩ませんばかりの輝きは、一瞬にして〈荊姫〉の感覚を蘇らせた。
口一杯に広がった砂が舌を研磨し、長々と日光を浴びてきた頭が疼きだす。ズキズキと額を軋ませる痛みは、〈荊姫〉に自分が生きていることを痛感させた。
独りで口にねじ込むパンと違って、皆に囲まれて食べるラーメンは懐かしい味がした。ただ質問に答えるだけで、どんな反応が返ってくるのだろうと、新天地へ踏み出すように心が躍る。同じ食卓から微笑んでもらえると、うたた寝をしている時のような安らぎが〈荊姫〉を包み込んだ。
離れたくないと、失いたくないと、もう独りは嫌だと、人でなしの分際で一丁前に温もりを欲した。ずっとこの人たちと一緒にいたいと、死にたくないと、当然の罰を受けるように言っているだけの星々から逃げ回った。
計算機に過ぎない〈黄金律〉とは別に、信賞必罰を旨とする神がいるなら、〈荊姫〉に報いを受けさせないはずがない。
なぜ事前に通達してくれなかったのか、〈荊姫〉は呪わずにいられない。ミューラー家の人々が巻き添えを食うと警告してくれていたら、皆がとばっちりを受ける前に自ら命を断っていた。
そうだ。
そうだった。
裁かれようとしているのは〈荊姫〉だ。
自分が然るべき罰を受ければ、罪のないタニアは無傷で返してもらえる。自分が死んでしまえば、もう誰かの亡骸に選択を迫られる心配もない。笑顔が山盛りになった食卓にはもう座れないが、代わりに痛みも苦しみもない無が永遠の平穏を約束してくれる。
解決策を導き出した喜びに含み笑いを漏らすと、シロは星の光をかい潜りながら机に這い寄っていく。ペン立てから取ったカッターを首に宛がい、斜めに引くと、火箸を付けたような熱さが刃を追った。
どろりと刃先を伝った血が、机の上の教科書に滴る。低く跳ね返った飛沫が、一瞬ウォータークラウンを形作り、表紙に緋色のシミが広がっていく。
国語の授業で使っていただろうそれは、便所の落書きが上品に思えるレベルの悪口造言で、黒く塗り潰されている。挿絵の女の子は、顔面を滅茶苦茶に切り裂かれていた。
胸の痛みに堪えられなくなった〈荊姫〉は、机の上から顔を背ける。すると今度は、泥だらけのランドセルが視界に入った。
ツギハギだらけの巾着、
焦げ跡の残った帽子、
「死ね」と刻み付けられたリコーダー――。
改めて見回してみると、机の周囲にはボロボロになった道具が溢れかえっている。〈詐校〉での凄惨な日々を物語る品々は、〈荊姫〉の脳裏にある疑問を描き上げていった。
どうしてタニアはまっすぐに夢と向き合えたんだろう?
彼女が約束を果たそうとしてくれているのは、〈荊姫〉も承知している。そしてまた〈荊姫〉が少し批判されただけで沸騰してくれるタニアは、きっと自分のことを血の繋がった家族のように思ってくれている。
だが一方で〈姫〉になりたいと宣言したタニアは、クラス中から冷笑を浴びせられた。いやそれどころか、教科書やランドセルを惨たらしく切り刻まれた。同年代の子供が気兼ねなく通う〈詐校〉に、彼女の居場所はない。
言ってしまえば遠い日の記憶に過ぎない思い出より、目先の痛みは具体的に見える。
仮に〈荊姫〉と約束したのが自分だったなら、皆に嗤われた時点で夢を追い掛けるのをやめていただろう。肉親の命より自分の安全を優先する〈荊姫〉が、クラス中から向けられる白い目に堪えられるとは思えない。
タニアは〈荊姫〉とは違う。情けない誰かにはない気骨を持っている。それでも、〈姫〉と向かい合う姿勢に嫌気と言うか、及び腰になるような雰囲気が見え隠れしてもおかしくない。
だが現実には、タニアは毎朝、意気揚々とランニングに駆け出して行った。数多の難問に怖じ気付くことなく机に齧り付き、手がへとへとになるまでペンを走らせ続けた。〈姫〉を目指したタニア自身への恨み言を、〈荊姫〉はたったの一度も聞かなかった。
そもそも、なぜタニアは本心を口に出したのだろう?
嘘を吐くのに抵抗があるなら、口を噤んでいればいい。作文を持ったまま棒立ちでいれば、ランドセルにも教科書にも傷を負わせずに済んだのだ。
棒立ち……?
行動しない?
夢現の時に肩を叩かれたような衝撃が走り、カッターを握る左手が跳ねる。
刃先から血の水玉が舞い、カーテンの隙間から差し込む月光を浴びる。球形の水面を染めていく輝きが、〈荊姫〉には遠い遠い迷宮の出口から覗く光明に見えた。




