④砂の器
住所のない生活は、〈小詐校〉にも通わずにアルバイトしていた頃よりずっと厳しかった。屋根の下で眠れることは、月に一度あるかないか。時にはパン一個を巡り、二〇歳を超えた大人たちが殴り合いを繰り広げた。
誰かの涙を止めたからと言って、お礼が返って来るとは限らない。
特に人間と関わり合った場合、彼等にとって人知を超越した〈詐術師〉の力は、十中八九、恐怖と不信感を呼ぶ。顔を引きつらせ、一目散に逃げられるならまだいいほうだ。極東のクモ男を退治した時などは、寝泊まりしていたあばら屋に火を放たれた。
だが夜通し藪の中を逃げ回ったせいで全身傷だらけになっても、翌日の食事時には笑い話になった。なぜなら食卓の中央には、脳天気なクリスチャンが座っている。そしてその周りには、食器棚の上段に手が届かなかった頃から、〈荊姫〉を見守ってくれていた人たちがいた。
旅の終わりは唐突にやって来た。
霜が育まれ、枯れ木が凍えるような季節。
空に近い山村での出来事だ。
連れ去られた人間の少女を取り返すべく、クリスチャンは単身、犯人のアジトに乗り込んだ。相手は〈砂盗〉のように外界で暗躍する〈詐術師〉だったが、苦戦の末、クリスチャンは少女を救い出すことに成功した。
そして命懸けで助けたその少女に刺された。
兄は多くを語らなかったが、きっといつものように〈詐術〉を恐れられたのだろう。
ごめんな……。
血塗れになり、横たわる兄を思い返すと、荒く掠れた最期の言葉が脳裏に甦る。
起きて! 起きて!
〈荊姫〉は布団を被っている時のように、寝起きの悪いクリスチャンを揺すった。大粒の汗を飛び散らせながら、白い息で目の前を覆い隠しながら、必死に篩い落とそうとした。毎朝、しかめっ面にさせられた「あと五分……」を。でももう二度と、不機嫌そうな寝ぼけ眼は見せてもらえなかった。
目を覚ましてもらえないと悟ると、〈荊姫〉は着た切り雀と揶揄していたジャージに縋り付く。力の限りクリスチャンを抱き締め、一分でも長く兄の匂いを、兄の体温をこの世に引き留めようとする。
だが願いも空しく、身を裂くような北風は刻々と兄の体温を奪っていく。ジャージの裾を握り締め、拳の内側に避難させていた温もりも、〈荊姫〉の手と共に容赦なく凍て付いていった。
亡骸が冷たくなっていくにつれて、胸の中心がごっそり抜け落ちたような感覚が膨れ上がる。すると瞳から氷水のような涙が垂れて、生乾きの血でかさついた〈荊姫〉の頬に透明な線を引いた。
白々しい芝居も大概にしろ……!
この世の不幸を軒並み背負ったような姿を見返していると、シロの脳裏は罵声の坩堝と化していく。上の歯は下の歯を押し潰し、下の歯は上の歯をすり潰し、頑なに結んだ唇から顎の軋む音を漏らしている。
手の施しようのない状況に呆然としている?
真っ赤な嘘だ。
あの女は兄を助ける方法を持っている。
遺体を揺すり、万に一つもない目覚めを促す?
血を塗りたくった顔を涙で濡らす?
何もかも哀れみを買い、批判を封じるための演技だ。
そう、計算高いあの女は、自分が責められたくない一心で、さも人の心を持っているかのように装っている。
確かにクリスチャンを助けることの出来た唯一の方法には、〈姫〉の選抜試験以上に厳しい関門がある。そしてクリスチャンがその狭すぎる関門を潜れなかったことは、演技に腐心する〈荊姫〉の代わりに、兄を救おうとした顔馴染みが断言している。
だが〈荊姫〉以外がクリスチャンを救えなかったからと言って、それは免罪符にはならない。
死者が関門を潜れるかどうかは、刻一刻と変化する。致命傷を負ったクリスチャンを最初に発見したのは〈荊姫〉で、残りの面々が駆け付けた時には既に二時間が経過していた。
あの女に人並みの情があれば、二の足を踏まずにすぐ手を打っていれば、兄は助かっていた――。
クリスチャンが息を引き取った直後に戻れない以上、この世の誰にも否定することは出来ない。
クリスチャンの遺体は人里離れた荒野に運ばれ、大樹の根元に埋葬された。
枯れ木を組んだだけの十字架に挨拶を済ませると、共に旅していた七人は一人また一人と、〈荊姫〉の前から去っていった。思い思いの道へ進むその背中は、たったの一度も振り返らなかった。
「ありがとう」の代わりに近しい人を奪われるような日々に、いい加減見切りを付けた? いや、ガラクタ弄り以外取り柄のない自宅警備員に同行し、〈詐連〉の外まで来た人たちだ。
ましてや傷を負わされるのが日課だった皆が、誰かの欠ける覚悟をしていなかったとは思えない。クリスチャンが命を落としたからと言って、目を覚ますことはないはずだ。
物分かりの悪いみんなは、きっと各々《おのおの》の道筋でクリスチャンを追った。
みんなの胸の中には、今もクリスチャンが生き続けている。
実際、遺体を前に発した別れの言葉は、故人を偲ぶと言うより悪口大会のようだった。よくもまあ、クリスチャンが真っ赤な顔で飛び起きなかったものだ。
一緒に行かないか?
まだ愛想が尽きていなかったのか、人でなしの〈荊姫〉を誘ってくれた人もいた。だが〈荊姫〉は、断るどころか墓標の前に座り込み、首を振ることさえしなかった。
〈荊姫〉は我が身可愛さに、血を分けた兄を見捨てた人でなしだ。今までのように手を伸ばしたとして、喜ぶ人がいるだろうか? 「殺人犯に救われたいか?」とアンケートを取れば、一発で答えの出る質問だ。
手を伸ばされる側の苦痛を見ないことにしたとしても、〈荊姫〉には兄の命より我が身の安泰を優先した前科がある。また自分に不利益があると判断すれば、簡単に他人を見限るのは目に見えている。現にモグラの〈筆鬼〉と相対した〈荊姫〉は、打開策となる卒塔婆を握っておきながら手を凍り付かせた。
大人と子供以上に実力の離れた〈砂盗〉が相手なら、十中八九、殺さずに制圧出来ただろう。だが何でもありの真剣勝負に、人死にが出ないと言う絶対の約束はない。
そう、レフェリーが注視するボクシングの試合でも、時に死亡事故が起きるのだ。〈荊姫〉が限界以上に手加減したとしても、不意の一撃が〈砂盗〉を殺さないとは言い切れない。
誰も死なせたくない――。
〈砂盗〉に告げたそれは、本心からの言葉だった。
だからと言って、〈砂盗〉の身を案じたわけではない。
小狡い〈荊姫〉が心配していたのは、毎度のごとく自分の身だ。
目の前で〈砂盗〉に死なれれば、また手を掴むかどうか選択を迫られる。そして兄にさえ背を向けた冷血な女が、赤の他人に命を懸けられるはずがない。
また誰かを見捨てれば、クリスチャンを死なせた時のように自分を憎み、軽蔑する羽目になる。新たな論拠を得た星々も、今まで以上に〈荊姫〉を責め立ててくる。
さすがに二回も他人を見殺しにする現場を押さえられてしまったら、もう言い逃れは出来ない。「生きている資格はない」と捲し立てるように放たれる正論に従って、自ら命を断たなければならなくなる。
何と計算高い女だろう。
あの時、〈荊姫〉の目の前では、果敢に立ち上がったアルハンブラが残忍に嬲られていた。普通なら沸き立つ怒りに身を任せて、〈砂盗〉を打ちのめすのが当然の場面だ。運よく〈NIMO〉が駆け付けたからいいものの、あのまま〈荊姫〉が殺されていたら、タニアにまで危害が及んでいた。
アルハンブラやタニアにもしものことがあれば、マーシャが涙に暮れる――頭だけは人並み以上に回る〈荊姫〉に、理解出来ていなかったはずがない。そう、タニアやアルハンブラの危機も、マーシャが嘆き悲しむのも全て承知の上で、〈荊姫〉は自分が傷付かない道を選んだのだ。
きっと〈荊姫〉は、ミューラー家の人々などどうでもいいのだろう。店の手伝いや家庭教師を買っているのは、自分を可愛がってもらうために過ぎない。
その証拠に〈荊姫〉は、素性すら明かしていない。真実を知った瞬間、態度を変えるのではないかと、あろうことか血の繋がった家族のように接してくれた人たちを疑っている。
メーちゃんの飼い主に食って掛かったのも、無神経な言葉を吐き捨てたからではない。
〈荊姫〉は独りきりで徘徊していたメーちゃんに、己の姿を重ねていた。だから飼い主の薄ら笑いを見た瞬間、自分自身がにべもなく嘲られた気分になった。
固く拳を握らせたのは、身内を無下にされた憤りではない。人でなし風情が持っていていいはずもない自尊心だ。
つい先ほどは星に責められたくない一心で、傷付けられたばかりのメーちゃんを見捨てた。〈砂盗〉の跋扈する夜の砂漠に、タニアを独りで踏み込ませた。
利己的で臆病な〈荊姫〉のせいで、彼女の未来は閉ざされようとしている。彼女を宝物と思っている人々に、〈荊姫〉に微笑んでくれた〈ロプノール〉のみんなに、一生消えない傷を刻もうとしている。メーちゃんが無事である保証も何一つない。




