⑤たぶん、プレスリーも生きてる。
「なあんだあ。案外元気そうでねえかあ。砂漠でめっけた時はあ、頬叩いても返事一つせんかったのになあ」
アルハンブラは優しく目を細め、よかったよかったと何度も頷く。老眼で耳も遠い彼には、噴き出す鼻血も断末魔の悲鳴も捉えられていないらしい。
「うげええええ!」
丸太のように転がっていった少女が、ボロ船の脇で動きを止める。同時に延々と続いていた悲鳴が途絶え、静寂が辺りを包み込んだ。
船体の影に伏せた彼女は、ピクリとも手足を動かさない。息があるなら浮き沈みするはずの胸も、ずっと地面に密着している。
撲殺――。
血の色で描かれた二文字が脳内に浮かび上がり、タニアの顔を青く染めていく。少女の背後に見える未来には、頭からジャンパーを被り、手にモザイクを掛けられた自分自身の姿があった。「ヒヤネ屋」のスタジオでは、したり顔のコメンテーターが凶悪犯罪の低年齢化を憂えている。
「……おっちゃん、こいつ、早く何とかしたほうがよくね?」
「ん~? 始末するんかあ?」
人の好さそうな顔で聞き返し、アルハンブラは甲板のスコップに手を伸ばす。どうやら遺体も姪の前科も、タクラマカン砂漠に埋めちまうおつもりらしい。
伯父の恐ろしい一面を見てしまったタニアは、一〇歩ほど後ずさる。しかし勇気を振り絞り、笑顔で死体遺棄を提案するサイコパスの前に舞い戻る。
「違うよ! 手当てしてやろうって意味!」
タニアは少女に視線を移し、のたうつ度に砂をまきちらしていたゴミ袋を指す。
「こんなに砂塗れってことは、こいつ、結構長いこと砂漠歩いて来たのかも。これ以上ふざけてたら、手遅れになっちゃうかも知れない」
「ターニャがトドメ刺したしなあ」
上手いことうやむやにしようとしていた事実を指摘し、アルハンブラは凶器の月メルを見た。痛いところを突かれたタニアは、肺に溜めていた空気を全て噴き出し、ゲホゲホと咳き込む。
「過失! 過失だからね! ちゃんと証言してよ!」
タニアはアルハンブラに突進し、繰り返し強調する。アルハンブラは煙たそうに眉を寄せ、吹き掛けられたばかりの唾を拭った。
「判ったあ。判ったあ。ほんじゃあここはええから、ひとまず家に帰れえ」
「家? 病院じゃなくていいの?」
「ここなら家のが近いしなあ。布団に娘っこを寝かせてえ、お医者さんに来てもらったほうがいいさあ」
最後まで指示を聞かずに、タニアはスタートを切る。年寄りのペースに合わせていたら、治療より先に刑期が始まってしまう。
少女の側に落ちていた月メルには、幸い一滴の鼻血も付いていなかった。表紙には砂埃が付着しているが、この程度なら拭くだけで元通りになるだろう。
「ほら、手当てしてあげるから。行こう」
ぶっきらぼうに呼び掛け、タニアは少女の手を取る。地面にへばり付いていた腕を引っ張り上げると、肘から先がぶらぶら揺れた。
まさか本当に死んでしまった?
いや世界一虚弱体質な冒険家ならともかく、雑誌が顔面を直撃しただけでゲームオーバーになるはずがない。十中八九、脱水症か熱中症だ。
ゆとり教育の賜物か、軽装で砂漠に挑む若者は年々増加の一途を辿っている。つい一週間前も短パンでタクラマカンにアタックした勇者が、担架で運ばれていった。
即席でも日よけを拵えた辺り、少女はゆとり共より遥かに有能と言える。とは言え、ゴミ袋とほっかむりで完封出来るほど、タクラマカンは甘い場所ではない。
「やっぱ独りじゃ立てないかぁ……」
タニアは愛おしい月メルを脇に挟み、少女を引っ張り上げた。
貸した肩に感じる重みは、米袋を担いだ時よりずっと軽い。人には自発的に身体を支える足がある――重々理解しているはずなのに、思わず少女を二度見してしまった。
肩に回させた腕は、汗でじと~っと湿っている。生乾きの長袖が肌に貼り付く感触は、梅雨時の靴下そのもの。ツーンと鼻の奥を突き刺す臭いは濃縮したお酢のようで、見る見るタニアの瞳を潤ませていく。
どのくらい洗濯していないのか、ブラウスの襟はカレーをこぼしたように黄ばんでいる。垢で黒ずんだ肩には、ぱらぱらとフケが散りばめられている始末。先端がカールするほど伸びた爪には、血とも土とも知れない黒ずみが溜まっている。
ザ・〈夢の島〉な少女を間近で眺めている内に、平屋ばかりの住宅街が段ボールハウスの集落に変わっていく。
不衛生な風体を悪臭を突き付けられた脳が、目の前の光景は間違っていると判断したのだろうか? いや少女の身体から放たれる何らかの化学物質が、脳の機能を狂わせたのかも知れない。
おぞましい侵食は、オ・ト・メの夢と希望が詰まった月メルにも及んだ。
表紙に書かれた「ピュア女子の胸キュンストーリー♡」が、どっかのスポーツ紙っぽい「グレイ発見!?」に変わっていく。「世界一切ない恋、始めました☆」が「マイケル生きていた!?」に変わっていく。
きゃぴきゃぴウィンクしていた〈乙姫〉さまは、身バレしないように手で目を隠してしまった。これじゃ〈姫〉は〈姫〉でも泡の姫さまだ。
ヤバイ! このままでは月メルに炊き出しのイメージを刷り込まれてしまう!
一刻も早く、この生きた肥溜めを下ろさなければ!
タニアは大きく踏み出し、早足で自宅に向かう。力の抜けた少女が激しく揺れ、ぼさぼさに乱れた髪が砂埃をまき散らした。
たちまち視界が黄土色に染まり、チクチクとした痛みがタニアの目を襲う。砂が喉に貼り付き、止めどなく乾いた咳が溢れ出す。三年間放置していた物置を大掃除した時にも、これほどの苦役は味わわなかった。
ああ、助けて……。
タニアは天を仰ぎ、あの人に救いを求める。
お別れから五年近く経ってしまった顔には、相変わらず靄のようなものが掛かっている。心を支えてくれている人なのに、はっきりと思い出すことは出来ない。ただガラス細工のように美麗なのは確実で、傍らの汚物と同じ生き物だとはとても思えなかった。