どーでもいい知識その① 「さまよえる湖」はさまよっていない
サブタイ通り、今回は衝撃の事実を紹介しています。
他にもカイコの蘊蓄も登場しますよ。
最近、動物の能力を再現した技術に注目が集まっていますが、シルクはその元祖かも知れません。
雲の切れ端を散りばめた空は、のっぽのビル群に埋め立てられていた。
通勤ラッシュに一区切り付いた時間帯にもかかわらず、〈ホータン〉の駅前は人でごった返している。Suitaでタコ殴りにされる改札は、時折、仕返しのようにゲートを閉ざす。通せんぼを食らったうっかりさんに、背後の人々は舌打ちをプレゼントしていた。
三分も空けずに警笛が鳴り響き、超空間同士を結ぶ〈列船〉が走り出す。空中に広がった水面をシャチに似た船体が駆け抜けると、ホームの屋根に虹色の飛沫が降り注いだ。
寂れた雑居ビルが改札鋏の空打ちを聞くだけだった〈ホータン〉の駅前は、近年の再開発で劇的な変化を遂げた。
特にユドバシカメラやヤニクロの入った駅ビルは、財布を持って行かなくても一日中楽しめる場所として人気を博している。流行曲のPVを流すオーロラビジョンは、絶好の待ち合わせスポットだ。今日もアイドルの足下に老若男女が集まり、スマホとにらめっこしている。
駅前の広場は露店の激戦区。
不動の一番人気はクレープ屋でもたこ焼き屋でもなく、意外にも色とりどりの石を並べた店だ。真剣な表情の中年男性から串刺しのハミウリを持った子供までもが、目を皿のようにして掘り出し物を探している。
〈ロプノール〉や〈ホータン〉を擁するタクラマカン砂漠は、中央アジアのタリム盆地に存在し、東西に約一一〇〇㌔、南北に約五〇〇㌔の広大さを誇る。その総面積は約三〇万平方㌔と、日本の九〇㌫にも匹敵し、タリム盆地のおよそ半分を占めている。
北を天山山脈、南を崑崙山脈と、タリム盆地は最高峰が七〇〇〇㍍を超える大山脈に挟まれている。頂上付近の万年雪や、多数の氷河から生み出される雪解け水は麓に流れ込み、タリム盆地を潤している。これがオアシスの正体だ。
砂漠にもたらされた水源は農業や牧畜を可能とし、多くの都市国家を育てた。楼蘭の礎となった孔雀河や、その本流であるタリム河も、天山山脈や西のカラコルム山脈の雪解け水を源にする流れだ。
「盆地」と呼ばれる地形には、地面の高低差が少ないと言う特徴がある。
シロ先生に教えてもらったのだが、タリム盆地も例外ではない。そしてそれは、ロプ湖が「さまよえる湖」と呼ばれることとも密接な関係を持っている。
そもそもロプ湖とはタリム河の支流、孔雀河を源にする塩湖で、タリム盆地の東部、標高七六八㍍の地点に存在している。「漢書」には「長さも幅も三〇〇里、つまり約一五〇㌔にも及ぶ広大な湖で、夏も冬も水量が変わらない」と記されているそうだ。その巨大さから中国では長い間、黄河の源流と考えられていたと言う。
「さまよえる」と呼ばれる所以は、「歳月に従って所在地を変える」と言う世にも奇妙な性質にある。とは言っても、縦横無尽に所在地を変えているわけではない。人々のロマンを踏みにじるようで申し訳ないが、実際は楼蘭周辺の決まった範囲を南北に移動しているだけだ。
盆地の例に漏れず、楼蘭から南へ向かっては二㍍程度しか高低差がない。
また土や岩盤の地面に比べて、砂で出来た砂漠は遥かに流水や風の影響を受けやすい。特に南北を大山脈に挟まれたタクラマカン砂漠は、強烈な山風を受ける宿命にある。
当たり前の話だが、水は高い場所から低い場所へ流れる。仮に孔雀河の流れが楼蘭の南へ注いでいるとするなら、楼蘭の北側より南側のほうが低いと言うことになる。
孔雀河が注いだことで楼蘭の南方に出来た湖には、大量の水と共に流れによって浚われた砂が送り込まれる。加えて砂漠を吹き荒れる風が砂塵は勿論、動植物の死骸や排泄物までをも巻き上げ、湖に運び込んでいく。
細やかな砂と言えども、一度水に沈んだそれが易々と風に吹き飛ばされることはない。その上、ロプ湖は孔雀河の終端に位置するため、一度注いだ水や砂が外部に流れ出ることはない。砂漠の強い日差しによって蒸発する水はともかく、溜まる一方の沈殿物は徐々に湖底を「底上げ」していく。
強風に晒されると言う条件に関しては、楼蘭の北に広がる砂漠にも同じことが言える。ただ一つだけ違うのは、南の湖が風に吹かれても波が立つくらいだが、きめ細かな砂漠は容赦なく削り取られ、「目減りしていく」と言う点だ。
底上げされる湖と目減りする砂漠――必然的に南北の高低差は縮まっていき、それにつれて孔雀河の流れは北へ移っていく。そして南北の高さが逆転した瞬間、水は完全に北へと注ぎ始め、新たなロプ湖を作り上げる。南には孔雀河から切り離された湖が残るが、新たに水の流れ込むことのないそれは、強烈な日差しによって急速に蒸発してしまう。
この後何百年、あるいは何千年掛けて北の湖には沈殿物が溜まり、南の砂漠は風に削り取られていく。高低差が逆転すると共に湖は再び南へ戻り、また長い歳月を掛けて北へ戻る。これが「さまよえる湖」のからくりだ。
遥か紀元前から一四世紀くらいまで、ユーラシア大陸の中央に位置するタクラマカン砂漠は東西交易の要路だった。
とは言え、砂漠のど真ん中を横断していたわけではない。天山山脈の南側を通る天山南路、北側を行く天山北路、崑崙山脈に沿って楼蘭、ホータンへと抜ける西域南路と、東西を結ぶ三つの陸路は、むしろ砂漠の縁をなぞるように通っている。
これらに共通するのは、「大山脈の麓を巡る」と言う点だ。
山麓には雪解け水の作った河があり、水のある場所にはオアシス都市がある。交易を生業とする商人たちの集団――隊商は、オアシスを渡り歩くことで物資を補充しながら、旅を進めたと言う。オアシスなくして旅路が成り立たなかった点を踏まえるなら、東西の交易は周囲の大山脈の賜物と言えるかも知れない。
シロ曰く隊商の規模は数十人から数百人程度で、数十匹から数百匹のラクダやロバを連れていたと言う。一日の移動距離は三〇㌔から四〇㌔ほどで、七時間から八時間の道程を縦列で進んだそうだ。
集団で旅をしていたのは、砂漠に潜む盗賊から身を守るためだ。
人目のない砂漠で大量の荷を運搬する商人たちは、よからぬ行為を働く連中にとって格好の標的だった。また旅路となる砂漠や高峰の過酷さを考えても、助け合ったほうが得策だったのだと言う。
一般的に隊商と聞くと、東から西へ西から東へ延々と旅を続けるイメージがある。そしてそれが間違いでないことを示すように、東洋には西洋から運ばれた、西洋には東洋から運ばれた交易品が存在する。
だが博学なシロに言わせれば、一つの隊商が旅するのは言葉が通じる範囲に限られていたらしい。ある街で隊商の荷を買い取った商人が、別の街まで旅してそれを売る――と言った具合に交易品は複数の商人による「バケツリレー」を経て、東西に渡っていったそうだ。
東洋の交易品と言えば何と言っても絹、つまりシルクだろう。
その滑らかな手触りや眩い光沢は、悠久の昔から人々を魅了してきた。
驚くべきことに中国で絹の生産が始まったのは、紀元前三〇〇〇年頃だと言われている。紀元前二〇六年から西暦八年まで存在していた王朝・前漢の時代には、養蚕技術が確立していたそうだ。
一方、西洋では六世紀頃まで絹の生産法が判明していなかった。西洋の人々はそれがカイコの糸であることすら知らずに、樹皮から作られると勘違いしていたらしい。
独占市場かつ莫大な富をもたらす養蚕は、何世紀もの間、中国の国家機密だった。技術やカイコは勿論、生産法を推理させるかも知れないと言う懸念から、道具を国外に持ち出そうとしただけで死罪に処されたと言う。
たかが繭を作るイモムシくらい西洋にもいるだろう――と思うかも知れないが、カイコは家畜化された昆虫で、野生には棲息しない。それどころか、人間が世話をしないと死んでしまう。現に幼虫は握力が弱く、エサであるクワの葉にも掴まっていられない。
またカイコの繭を絹にするまでには、幾つかの工程をこなさなければならない。
湯や蒸気で繭を温め、柔らかくする煮繭、複数の糸を目的の太さに縒る繰糸――そもそも美しい絹が欲しいなら、最初に汚れた繭を取り除いておく必要がある。ただカイコを育てただけで、上質の生地を得られるわけではないのだ。
わざわざ難所の砂漠を越え、交易しなければならなかった理由がここにある。
仮に絹の生産法が広く知られていたら、命懸けの長旅に人々が殺到することはなかったはずだ。そしてまた西洋人が絹に熱中した背景には、入手しづらさに起因するプレミア感もあったに違いない。容易には入手出来ない代物を身に着けることで、自分自身のステータスを示す意味もあったのだろう。
この頃、西洋では中国や砂漠の人々を、「絹を生む人」と言う意味である「セレス」と呼んでいた。それだけ西洋では、「東洋」と「絹」が直結していたと言える。




