⑦Over Soul
「どうした、お嬢ちゃん? 鬼ごっこでもするのかい?」
ベロベロとツチノコそっくりの舌を出し、モグラはシロを挑発する。
「生身じゃ……」
顔を歪ませながら絞り出し、シロはジャージのポケットを垣間見た。
出血のせいだろうか、一連の攻防で充血していたシロの唇が、たちまち青紫に染まっていく。今さらモグラに恐れを成したようにシロの肩が震えだすと、荒い呼気を吹き付けられた地面から重々しく砂埃が散った。
唾を呑み、喉が硬く波打ったのをきっかけに、シロの手がズボンのポケットに忍び寄る。身体の表面を伝い、恐る恐る這い進む様子は、まさに忍び足。行きたくない、行きたくないと傷口から爪を立て続けた指は、シロの胸から腰に掠れた血の線を引いている。
ポケットに詰め込まれて尚、往生際の悪い手はぐだぐだと蠢き、凸凹とズボンを波打たせる。寝付けない腹いせに、布団の中で足をムズムズさせているような動きは、思い通りに行かない苛立ちをありありと物語っていた。
一向に出て来ない引きこもりに見切りを付けたのか、シロはポケットから背後に目を移す。まずオープンシップのカップルに向かった視線は、仰向けのアルハンブラ、メーちゃんと瞳に映る対象を変えていった。
縋り付くような眼差しは、行動を後押しする光景を捜しているのだろうか? 一方で震える眉に着目すると、シロは明らかに決定打を見出すことを恐れていた。
一頻りメーちゃんを見尽くしたシロは、視線を上に滑らせていく。灰色の瞳がタニアに染まった瞬間、深く上下していた肩と共にポケットの蠢きがピタリと止まった。
「私が、私がやらなきゃ……!」
ぐぅ……! と唸り、鎖でも引きちぎるように力み、シロはポケットの手を引っ張り出していく。
鉄格子のように固く閉じた指が握り締めていたのは、純白のSOTOBA。
葬式の花輪のように飾り付けられた髑髏たちが、汗に塗れておどろおどろしくテカっている。
「おもちゃで遊んでくれるのかい?」
モグラが吹き出したのを皮切りに、〈砂盗〉たちがゲラゲラと笑いだす。
賛同するのは癪だが、タニアが奴らの仲間でも、同じ行動を選んだのは間違いない。
おもちゃ屋の売れ残りにしか見えないそれで、シロは何を打開するつもりなのか? まさかモグラには勝てないと悟って、大好きな〈十字火面〉にSOSでも送っているのだろうか?
呆れ果て、立ち尽くすタニアとは対照的に、シロは顔中にシワを浮かせている。強張った顔だけ見せたら、世界中の人がこう答えるだろう。彼女が持っているのは爆弾だ。
「これを、これを使えば……!」
シロは汗で滑るSOTOBAを握り直し、ひし形に尖った先端を自らの喉元に向ける。
その瞬間、時間が止まった。
短剣のようにSOTOBAを構えた左手、
ぶるぶると震えていた唇、
そしてシロの呼吸さえもが、完全に静止している。
ハッ!
意識を取り戻したように息を吐いたシロは、歯を食いしばり、左手を睨み付ける。だが細い首に血管が浮き上がっても、左手は動かない。
片手では無理と判断したシロは、左手に物々しく爪を立てた右手を添え、横に引っ張ろうとする。だが踏ん張ったせいで胸の傷口から赤いシミが広がっても、左手はビクともしない。
ふふ……。
思い通りに動かない左手を眺めていたシロから、力の抜けた笑みが漏れる。あまりの役立たずぶりに、つい失笑してしまったのかも知れない。
シロの右手がSOTOBAから剥がれ落ち、微塵たりとも反応しなかったはずの左手が腰の脇に垂れる。指と言う指が力なく伸びると、支えを失ったSOTOBAが地面に落ちた。
「……逃げて」
呟いた刹那、シロは幾分か軽くなった左手を抱え、モグラに突っ込む。相手が面食らっている間に巨体を抱え込み、シロはモグラの脇の下に手を差し込んだ。ボクシングで言うクリンチの体勢だ。
「放せ! 放しやがれ!」
著しく動きを制限されたモグラは、骨の突き出た肘を無茶苦茶に叩き付け、シロを引き剥がそうとする。
狙いを二の次にした乱打が背中を肩を後頭部を打ち据え、シロの身体が痛々しく跳ねる。サンドバッグを打つような衝撃音が輪唱し、がくん、がくんとシロの腰が沈んでいく。だが咳と一緒に噴き出す血がモグラの顔を赤く染めても、シロはクリンチを解こうとしない。
「逃げて!」
今度は絶叫し、シロは恐ろしささえ感じる形相でタニアを見つめる。
「逃げ……る?」
真っ白くなりかけている頭に全神経を集中させ、何とか次に採る行動を考えてみる。
アルハンブラをシロを見捨て、背中を向ける?
したくない。
では〈砂盗〉に戦いを挑み、二人を救うか?
出来ない。
希求にも実力にも見合った行動が見付からない内に、行く道にも来た道にも進めない身体が現在地で足踏みを始める。そうやって歩数を増やしているだけの間にも、モグラの肘がシロを滅多打ちにし、霧状の血を噴かせていく。
「おい見ろ、もう一匹いるぜ」
シロの視線を追ったのか、ヘルメットの男がタニアを指す。途端、〈砂盗〉たちの眼差しがヤルダンの陰に集まり、爆発音に似た鼓動をタニアに聞かせた。
「へへ……、今日は大漁だな」
粘っこく舌なめずりし、ヘルメットと三段腹の男が歩みだす。
足を竦ませるタニアを尻目に、鉛筆程度だった二人の姿があっと言う間に大きくなっていく。身動ぎ一つ出来ない内に、壁のような胸板がタニアの鼻先に立ちはだかる。陽光を遮られたタニアは、目の前が真っ暗になった。
「こぉんにちはぁ」
凶悪にほくそ笑み、三段腹はタニアの肩に手を置く。腰に力の入らなくなったタニアは、否応なくヤルダンにもたれ掛かった。
強かに胸を連打していた鼓動が、生半可な声より大きかった呼吸音が、急激に萎んでいく。生温かかった汗が冷えていくに従い、タニアの身体はヤルダンを滑り落ちていった。程なく尻が地面に着き、弛緩した口角を涎が伝う。
めぇ!
情けない姿を見ていられなかったのか、メーちゃんは勇ましく吠え、タニアの懐から飛び出す。そうして三段腹の前に立ちはだかると、番犬が侵入者を威嚇するように唸り声を上げ始めた。黒い毛は針のように逆立ち、限界まで食いしばった臼歯は顎を軋ませている。
「邪魔なんだよ!」
鬱陶しげに吐き捨てた三段腹は、メーちゃんの頭上に巨大な足を振り上げる。小賢しい毛玉を一息に踏み潰す気だ。




