②孤立化する老人たち
「うあああああ!」
運転手は絶叫し、咥えていたタバコを吹き矢のように撃ち出す。額に血管を浮かせ、丸い舵を握り締め、身体を右後方に倒す。
操舵手の重心移動によって操られる船体が、大きく仰け反る。ひっくり返らんばかりに船底が浮き、船首が天を衝く。ロプリンの描かれた旗が派手に翻り、直進していた船が鋭く右に逸れた。
半ば直角に曲がった船体がタニアの鼻先を掠め、視界の左から右へかっ飛ぶ。反対船線を横断し、路肩に乗り上げたそれは、まっすぐブロック塀に突っ込んでいく。
「ひぃぃぃぃぃ!」
クラッシュを目前にした操舵手は、思い切り足下のペダルを踏み込んだ。
船首に内蔵されたノズルが圧縮空気を噴射し、猛進する船体にブレーキを掛ける。ブロック塀に吹き付けられた白煙が、跳ね返されたように膨れ上がり、操舵室の窓が一気に曇る。船体が激しく震えると、船底の水面から水飛沫が噴き上がり、小振りな虹を描いた。
ガクン! と船尾が跳ね、甲板の段ボールが軒並み弾む。瞬間、舳先のそのまた先がブロック塀を小突き、船体がピタリと動きを止めた。
「ターニャ、何度言ったら判るんだあ。急に飛び出したら危ないだろお」
舵の脇にある窓から顔を出し、アルハンブラ・ミューラーはやれやれと首を振る。口調こそ毎度のようにもっさりゆったりしているが、額のシワには大量の冷や汗が溜まっていた。
よれよれのシャツはぐっしょり濡れ、浅黒く焼けた肌を透かしている。急ブレーキを掛けた瞬間、宙を舞った灰皿のせいで、スラックスにはまた新しい焦げ目が刻まれていた。
もろに灰を浴びた頭は、いつも以上に真っ白い。顔の中心にどっしり聳えるワシ鼻には、短い吸い殻が乗っかっている。
「おっちゃん、おっちゃん!」
毎月恒例の注意を聞き流し、タニアは操舵席側のドアに飛び掛かった。
ノブにしがみつきながら窓枠を揺すり、スローペースな伯父を急かす。がむしゃらにドアを蹴飛ばすと、チンパンジーが檻に掴み掛かったような金属音が鳴り渡った。
「まあた沸騰してえ……」
アルハンブラはふさふさに生い茂った眉を寄せ、湿布臭い肩を落とす。
「ええかあ? おっちゃんはなあ、〈ホータン〉まで行って来たんだぞお。『タクラマカン』なんて、おっかない名前の砂漠を通ってなあ」
アルハンブラがおっかないと評する「タクラマカン」とは、ウイグル語で「生きては出られない」と言う意味だ。
ウイグル語はタクラマカン砂漠一帯で使われている言語だが、タニアたちの間には普及していない。〈詐術師〉の公用語は二五〇〇年前から使われている五〇音で、ちょっとカッコ付けたい時はAからZまでの二六文字にご登場願う。
「まずご苦労さまでしたって労うのが、出来た姪っ子じゃないかあ?」
アルハンブラはぐずぐずボヤき、のろのろと操舵席から降りる。続けてだらだらと胸ポケットを漁り、半分潰れたタバコの箱を取り出した。
もたもたとタバコを咥えたアルハンブラは、ぐずぐずとライターを唇に近付けていく。嗅ぎ慣れた紫煙が棚引く頃には、マツさん宅のミドリガメが水槽の中を一周していた。
「早く! 早く!」
声を張り、捲し立てながら、タニアは左手を固めていく。
これ以上ミドリガメのジョギングを観覧させられるなら、実力行使も致し方ない。顔面に体重を乗せた一撃を叩き込めば、ナマケモノも機敏と言う言葉を学ぶはずだ。
「その気の短さは誰に似たんかなあ。おばちゃんもアレで、辛抱強いほうなんだけどお」
発射一秒前の拳を眺めながら、アルハンブラは首を傾げる。
「おっちゃんと二〇年も夫婦やってるくらいだもんね!」
九割九分本音の皮肉を吐き、タニアはべーっと舌を出す。
「違いねえ」
アルハンブラはケラケラ笑い、船体側面のハシゴを掴む。崩壊寸前の腰を叩き、気合を入れると、アルハンブラはようやく甲板に登り始めた。
「……誰に似たのか、か」
ハシゴを伝うアルハンブラを見守りながら、タニアは自分に問い掛けてみる。
言われてみれば、身内に短気な〈詐術師〉はいない。
伯父のアルハンブラは、稲作からおにぎりが出来るのを待てるような性格。せっかちに見られる伯母も、意外と気の長いところがある。うっすらとしか憶えていない両親も、エレベーターのボタンを連射するタイプではなかったはずだ。
「もう少し長い目で見てやらないとお、みんなに嫌われるぞお。ほらあ、お前の尊敬するあの人もお、ぎゃーぎゃー他人様を急かすような人じゃなかっただろお?」
どっこいしょっと息み、アルハンブラは甲板に這い上がる。肩を沈ませながら立ち上がると、アルハンブラは山積みされた段ボールをより分け始めた。
「急かさないけど、すっごい速さで足踏みしてた」
幼い頃に見た光景を思い返すと、タニアの顔は自然と綻んでいく。
記憶の中に淡く見える金髪は、いつもせかせかと跳ね回っている。勿論、沢山の被災者を目の当たりにし、いてもたってもいられなかったのもあったのだろう。ただ同時に、気の長い人ではなかったのも事実だ。
三分で出来上がるカップラーメンは、二分半で開けるのがデフォ。不慣れな配膳係がもたついていれば、光の速さでお玉を奪い取る。直々に豚汁をよそわれたお婆さんは、土下座せんばかりに頭を下げていた。
もしや、あの人の背中を追い掛けている内に、性格までなぞってしまったのだろうか?
真偽はどうあれ、間に合わせの割烹着を着た姿が、ステージ上のドレスより眩しかったのは確かだ。あの人と同じ立場になれたなら、マイクよりお玉を取る人になりたい。
「へえ~、見た目じゃ判らねぇもんだなあ。テレビで観た時はあ、大人しそうなお嬢さんだと思ったけどもお」
アルハンブラは邪魔な米袋を脇に退け、段ボールを開く。
「にしてもお、今日はよ~く急ブレーキを掛ける日だなあ。いやあ、つい一時間前にもなあ」
何やらぶつぶつと呟きながら、アルハンブラは段ボールの中を漁りだす。
人生も墓場に近くなってくると、相手のいない会話が多くなるものだ。よく出前を取ってくれるトメさんは、テレビ画面のニュースキャスターに見合い話を持ち掛けていた。老人の孤立化を象徴する光景に、タニアはちょっぴり憂鬱な気分になった。
「ほおれ、お望みのもんだあ」
アルハンブラは分厚い雑誌を持ち上げ、甲板の外へ放り投げた。「少女漫画界の百科事典」と呼ばれる月刊誌が宙を舞い、タニアの顔に四角い影が降る。
「わ!? ちょ、ちょっと待ってってば!」
慌てて腰を沈め、タニアはレシーブの構えを取る。瞬間、紙製の砲丸が両腕に着弾し、階段を踏み外したように視界が弾んだ。
みしぃっと骨が軋み、キュートなお尻が軽く地面に着く。さすがはtamazonで、「凶器に最適」とレビューされる一冊だ。