⑤グレーゾーン
「おや、まだ起きてたのかい? お行儀よさそうな顔して案外宵っ張りなんだねえ」
床の間から食堂へ出るためにサンダルを履き、マーシャはシロに歩み寄る。
水色のパジャマには、大好きな縦縞があしらわれている。目の錯覚を利用し、おふくよかな腹を少しでも細く見せようとしているのだ。
「あの、どうもありがとうございました」
シロは一度立ち上がり、深々と頭を下げる。慌てて拭ったせいか、マーシャを映す灰色の瞳は、花粉症の季節のように赤くなっていた。
「本当に礼儀正しい子だねえ。いいんだよ、困った時はお互いさまなんだから」
今日だけで一〇回以上もお礼を言われたマーシャは、しみじみと感嘆の息を吐く。
「でも泊めて頂くだけでもご迷惑なのに、お洋服まで貸してもらって……」
「どうしてもお礼をしたいって言うんなら、そうさね、爪の欠片でももらおうかね」
「爪、ですか」
シロは何度かまばたきし、風呂上がりにタニアが切ってやった爪を見つめる。
「垢を煎じてターニャに飲ませるのさ」
茶目っ気たっぷりにウィンクし、マーシャは豪快に笑う。食堂中の〈言灯〉を震わせる大音量は、昼時の盛況を一人で再現しているかのようだ。
タニアに悪いと思ったのか、シロはしばらく堪えてから口元を覆う。途端、派手に三段腹を揺らすマーシャとは対照的に、くすくすと小さく笑みを漏らし始めた。
シロの表情に明るさが戻ったのは、本心からめでたいと思う。
だが正直、愉快な気はしない。
と言うか、笑い声のアンサンブルを聞けば聞くほど、タニアの鼻息は荒くなっていく。他人様の陰口を肴に笑い合うとはいい度胸だ。今すぐ食堂に殴り込んで、中華包丁でも振り回してやろうか。
目を血走らせるタニアとは裏腹、マーシャは柔らかく瞳を細めていく。
自然と笑みが治まるまで待つと、マーシャはシロの肩に手を置いた。
「いいんだよ。迷惑だなんて私も旦那もターニャだって思ってないさね。むしろ、かわいい娘が増えたみたいで嬉しいくらいさ。何だったらずーっといてくれてもいいんだよ? 実はフリフリの服とか結構買ってあるんだ」
大袈裟に溜息を吐き、マーシャは首を振る。
「ほら、ターニャはそういうタイプじゃないだろう? Tシャツに半ズボンばっかりで、張り合いがないったらありゃしない」
「私もタニアさんくらいの頃は、ズボンばっか穿いてたっけ。新聞配達する時とか、スカートだと動きにくいんです、ひらひらしちゃって」
愛想笑いにしてもぼやけた感じのする顔で返すと、シロは目の前のサッシに視線を移した。
ガラスに映った自分を睨み付けた途端、シロの顔が酷く歪んでいく。まさか汗も垢も流しきったはずの鏡像が、腐臭でも漂わせているのだろうか。
「……ずっと一緒にいる? ダメ、ダメですよ。私は誰かの手を掴んでいい奴じゃない。どれほどマーシャさんによくしてもらっても、自分だけがかわいい私は優しさに応えない。そう、薄汚くて小狡い私は、誰にも目を合わせてもらえないのがお似合いなんです」
愛想が尽きたように息を吐き、シロは鏡像からマーシャに視線を戻す。
「誰のお世話にもなっちゃいけないって判ってたんです、本当は。今日はついラーメンの匂いに吸い寄せられちゃいました」
決まり悪そうに頭を掻き、シロは媚びへつらった笑みを浮かべる。太鼓持ちのような顔はしきりに訴え掛けていた。どうぞ自分のだらしなさを笑って下さい。
シロの願いとは裏腹、容赦なく自分をこき下ろす姿は、タニアの胸を締め付けていく。これならきっと肉親の葬式で笑えと命じられた時のほうが、まだ実行する気になるだろう。
「シロちゃんが薄汚い? まさか」
マーシャはやんわり否定し、シロの手を取る。
「これでも人を見る目はあるさね。いいや、私なんかよりターニャが証人さ。気難しいあの子があんなに楽しそうに話し掛けてたんだ。シロちゃんが悪人なはずないさね」
何でそんなこと言うんだ!
明日、シロの顔が見られないじゃないか!
絶叫しそうになったタニアは、盗み聞きが露見しないように急いで口を押さえる。次いで忍び足のカニ歩きを実践し、半分飛び出していた身体を柱の陰に戻した。
「楽しそうにしていた」と告げられたのが無性に恥ずかしくて、首の上がカッカする。今、鏡を見たら、耳まで真っ赤に違いない。
「この町には同年代の子がいないからねえ。いい友達が出来てターニャも嬉しいんだ」
感慨深げに語るマーシャは、シロの胸をガン見している。炭素の放射線量を測定するより確実に、シロの年代を特定出来る部位だ。
「いえ、あの、私……」
一歳か二歳年上なのか、シロは声を濁らせながら異を唱える。続けて斜め上に目を向けると、指折り年齢を数え始めた。
畳むだけでは数え切れなかった指が起き上がったとしても、片手が限度だ――。
タニアがそして世界中がしただろう予測を呆気なく裏切り、一六本目の指が天を仰ぐ。タニアの困惑を余所に指の卒倒劇が二巡目に突入すると、シロの顔から見る見る明るさが家出していった。背中の影が寿退社する後輩を見送るOLみたい。
「……もうすぐ三〇です」
さ、三〇ッ!?
ぐわっしゃん! とタニアの脳内に轟いたのは、交通事故っぽい金属音。
むち打ち必至の衝撃が全身を駆け抜け、静止していた頭部が前に飛ぶ。五秒くらい呼吸が停止して、心電図がピーって鳴る音が聞こえた。
「あ、でも身体は一五歳です」
補足するシロの顔は、「銀行からお金を借りられなくなった中小企業の社長さんが、ヤミ金で運転資金を用意出来た時」みたいだった。根本的な問題は何一つ解決していないが、とりあえず目先の安心だけは確保出来たらしい。
「さ、さんじゅう……?」
白目を剥きながら絞り出し、マーシャはハニワのように口を空ける。意識が危ういのか、額を押さえたマーシャはふらふらと壁際まで後ずさっていく。
おばちゃん! おばちゃん! しっかり!
タニアは口パクで叫びながら、マーシャにエア心臓マッサージを施す。打ち水のように汗をまき散らすと、呼吸を忘れていたマーシャの口からハッ! と鋭い息が出た。開き気味だった瞳孔も、普段通り縮まっている。
「あ、えっと、そ、そういうのが好きなのかい?」
あからさまに狼狽した様子で話を逸らし、マーシャはシロの懐を覗き込む。
がに股のタニアと違ってお行儀よく揃えられた膝に、リモコン大のSOTOBAが乗っている。
安っぽい光沢を見る限り、プラスチック製だろうか。色は蒼白で、無数の髑髏がお葬式の花輪っぽく飾り付けられている。
一番大きい髑髏はヨーヨーほどもあって、銀と黒のMIZHIKIを口ひげのように蓄えていた。また大きく開いた口には、薄汚れた提灯が填め込まれている。
SOTOBAは一昔前に極東で大流行したアクセサリーだ。タニアも砂見に来た観光客が、携帯のストラップやキーホルダーにしているのを何回か見たことがある。
本来は人間が墓場に立てる木片で、梵字と言ったか、あのモニョモニョした文字が「チョーカワイイ!」とか「ヤバい!」とかで、JKがファッションに取り入れたと聞く。〈詐術師〉用のそれは概ね片手に収まるサイズだが、実物は標識のように長いそうだ。
「昔から好きなんです」
薄くえくぼを浮かせ、シロはSOTOBAを掲げる。内部で部品が落ちたのか、カタンと貧乏臭い音が鳴った。昨今、一〇〇均のカンペンだってもう少し裕福な音色を奏でるだろう。
「意外だねえ。シロちゃん、つけ爪も『がんぐろ』もやってないのに」
「あ、いえ、これアクセサリーとかじゃなくて、誕生日にもらったおもちゃなんです」
「おもちゃ、かい?」
「ええ、私が好きなのはこういう変なおもちゃが出て来る番組――特撮なんです」
着ぐるみの殴り合いが大好き――。
身体が一五歳で実年齢がアラサーのシロが宣言しても、タニアはおかしいとは思わない。
近頃の特撮は火曜一〇時辺りのドラマを軽く凌駕する完成度で、大きなお友達を量産している。中でも日曜朝八時に放送されている、〈十字火面〉シリーズは別格だ。劇場版が大人向け作品以上の観客動員数、興行収入を叩き出すのは当たり前。新しい首輪の発売日には、開店前から量販店に行列が出来る。
グッドルッキングガイを中心にした配役は、「動かざること六神合体」なお父さんたちにげんなりしているお母さん方にも大好評だ。最近は一般作品で活躍する俳優さんに、「元ヒーロー」の肩書きを見るのも珍しくなくなってきた。




