④レッドローズ
なれるもなれないも目指さなければ叶わないじゃないか!
白い目に溢れかえった教室を思い返すと、タニアの心は唾を泡を吹き散らす。じくじくした苛立ちに焼かれる身体は、今にでも脳裏のクラスメイトに飛び掛かりそうだ。
対照的に記憶の中のタニアは、大人しく口を噤んだまま。前から二番目、右から四番目の〈言灯〉が点滅するのに合わせて、上唇と下唇をひたすら練り合わせている。
反論したいのに勇気を振り絞れないもどかしさは、作文を持つ手をもぞもぞと揺れ動かしていた。見る見る原稿用紙がシワだらけになり、忍び泣くような音が漏れる。
絶対、〈姫〉になる――。
作文を読まされた五時間目以降、タニアは自分に宣言させ続けた。でなければ、何も言い返せなかった自分を罰せられなかった。あまりに不甲斐なくて、正面から〈荊姫〉さまを見られなかった。
だがタニアがどれほど顔を真っ赤にして訴えても、喉を嗄らしても、教科書の落書きがランドセルの切り傷が増えていくだけ。一見すると誠実に耳を貸しているように思える学級委員長も、口角はむず痒そうに蠢いている。ごめんね、ごめんねと夜の部屋でボロボロにしてしまったランドセルに謝っていると、書き殴りの「死ね」や「消えろ」に大きな水玉が落ちた。
目の腫れが引くのを待って帰宅するのが日課になってから、半年ほど経った頃。
連休明けの火曜日、タニアはマーシャにお腹が痛いと訴え、一日を布団の中で過ごした。以来二年間、〈小詐校〉には通っていない。
頭の出来がよくない上にサボり魔な自分が、独学で〈姫〉になれるはずもないのは判っている。でも駄目なのだ。朝、家を出ようと〈詐校〉指定の黄色い帽子を被ると、脂汗が滲み出てきて立ち上がれなくなる。
タニアがマーシャにお腹が痛いと訴えたのは、仮病ではない。あの時はお腹の中で砲丸が跳ね回っているようで、胃液が出なくなった後も繰り返し吐いた。
今日までタニアは疑わなかった。
自分が〈詐校〉から離れたのは、これ以上、心にも身体にも傷を負いたくなかったからだ、と。
でも呂風湯でシロと言葉を交わしてから、違う答えが見えて来た気がする。
嘲笑に溢れた教室は、タニアが〈姫〉に程遠いことをまざまざと突き付ける。
どれほど熱弁してもまともに取り合ってもらえないのは、自分にシロの言う「力」がないから。タニア・ミューラーの能力に容姿に日々の振る舞いに、〈姫〉を目指していると言う説得力があるなら、耳を貸さざるを得ないはずだ。
二年経った今でも、タニアの話を聞いてくれるのは身内だけ。
……いや、今日もう一人増えた。
目を閉じ、意識に時間を遡らせると、浴槽から自分を見つめるシロが浮かび上がる。呼応して天井から垂れる水滴も、石鹸の香りもないはずの部屋に、しとしとと湯口の音が鳴り始めた。
家族以外の人々が目覚めたままの寝言に分類してきた話を、奴は真剣な顔で拝聴してくれた。支離滅裂に気持ちを吐き散らかすだけの泣き言に耳を傾けて、きちんと意見してくれた。
頭の中に漂う湯気が、身体を温めてくれたのだろうか。
嘲笑された過去を思い返し、冷え切っていた胸に、ほんわりとした温もりが広がっていく。少し肌寒かった初夏の夜が、今は麗らかな陽光に照らされた野原のようだ。
胸に手を当て、温もりを反芻していると、強張っていた顔が湯煎したように緩む。自然と唇の端が開き、温い感じのする笑みが漏れた。
「……ばーか」
行き倒れごときのエールに、何をへらへらしているのか。
自分を罵った途端、大きく開いた口の中にかさついた感触が広がっていく。
どうやら長々と銭湯を眺めていたせいで、喉が渇いてしまったらしい。
洗面所にしろ台所にしろ、水道は一階にしかない。もうすぐ布団に入る時間だし、トイレにも行っておくべきだろう。
机の上を簡単に片付け、タニアは部屋を出る。
サビの臭いを頼りに手すりへしがみつき、暗闇に覆われた階段を一段ずつ踏んでいく。黒塗りのスロープにしか見えないそれを半分ほど下りると、そよ風が頬を撫でた。
窓でも空いているのだろうか?
いや、それはないはずだ。
反射的に足が止まり、眉の端が大きく吊り上がる。
戸締まりのチェックは、夜更かしなタニアの役目だ。今日も一階の洗面所で歯磨きをした帰りに、間違いなく施錠されているのを確かめた。
まさか泥棒?
確かにミューラー商店にはシャッターを下ろす習慣がない。玄関のサッシに備わった鍵も、安全ピンで開きそうな安物だ。しかし割れた窓をガムテープで補修しているような豪邸に、服役のリスクを冒してまで忍び込む価値があるとは思えない。
とは言え、今は空前の不景気と呼ばれる時代だ。限界まで追い詰められた貧乏人が、同じ底辺層から小銭を奪うこともあり得ないとは言えない。
今朝も強盗殺人のニュースを見たタニアは、万一に備えて悲鳴用の息を吸い込む。伯父にしろ伯母にしろ、隣家でボヤ騒ぎがあった時でさえ高イビキをかいていた猛者だ。だがまさか、姪の絶叫を聞き逃すほど大らかではないだろう。包丁でメッタ刺しにされる姪を尻目に、むにゃむにゃと涎を垂らしているはずがない。信じたい。
タニアは忍び足で階段を下り、柱の陰に身を隠しながら一階を覗き込む。
厨房の窓から細く差し込む街灯が、明かりの消された食堂を照らしている。徹底した静寂は鼓動を騒音に思わせるほどで、ひんやりした空気は半袖のTシャツに力不足を感じさせる。昼時にはオッサンたちの猥談で喧しい空間が、今はまるで海底の沈没船だ。
玄関のサッシに掛かったカーテンは、弱々しく夜風にはためき、月光を招き入れている。
風音を合図にして垣間見える夜空には、星屑のスパンコール。
雲一つない天蓋は、それこそ大量の輝きで彩られている。正確に計ったわけではないが、暗闇に染まった部分より光っている面積のほうが広いかも知れない。あまりに星が安売りされているせいで、むしろ何もないところのほうが美しく見えて来る。
あれほど一杯あるなら、虫取り網で掬えるんじゃないか? そんな風に思って、〈ロプノール〉に越してきたばかりの頃は、よく伯父に肩車してもらった。
サッシの前にぽつんと置かれた丸椅子には、六年間見続けた風景に馴染まない背中。
シロだ。
真っ赤に日焼けした肌を冷ましているのか、気持ちよさげに目を細め、冷たい外気に顔を晒している。
タニアが貸した桜色のパジャマは、背丈が近いのもあってピッタリ……ではない。幼児体型の持ち主が着てもささやかに隆起する胸元が、だぶだぶに余っている。銭湯でさんざん裸体を拝み倒しておいて何だが、段々シロが本当に♀なのか疑問になってきた。
「……私、やっぱり肌弱いなあ」
独り言を呟き、シロは赤らんだ腕をさする。直後、肌の火照りを冷ますように涼風が吹き、雅やかに金髪を靡かせた。洗髪した時には無造作に掻き回した代物だが、今となっては毛先を撫でた風に触れるのも畏れ多い。
「……弱いの、肌だけじゃないよ」
力なく自嘲の笑みを漏らし、シロはカーテンの隙間に目を向ける。叱られた子供が母親の機嫌を窺うような眼差しは、卑屈に星空を仰ぎ見ていた。
まだまだ星の怒りは治まっていなかったのか、シロはすぐさま俯き、影の溜まった鳩尾に視線を逃げ込ませる。苦しげに顔を歪め、亀のように背中を丸める姿――タニアの目には見えないだけで、重石でも背負っているのだろうか。
「……世界中の人に糾弾されても力を振るう? どのツラ下げて御高説並べてんだよ、テメェかわいさに手を伸ばす真似もしなかったお前がさあ」
タニアからシロの表情は見えない。シロが下を向いたせいで、長く伸びた前髪が顔を隠してしまっている。ただ辛うじて垣間見ることの出来る唇は、愉快そうに曲線を描いていた。
でも夜風が囁く合間に聞こえるのは、痛々しく鼻水を啜る音。
含み笑いに呼応して震える肩は、嗚咽を噛み殺しているようにも見える。
項垂れるシロを眺めていると、タニアの視界は水中のようにぼやけていく。やけに痙攣する目尻を拭うと、いつの間にか湧いていた水滴が人差し指を濡らした。シロの姿を見て取って以来、ぶつける機会を探っていた「おどかすな」も、ひっそりと喉の奥に引っ込んでいく。
この感覚は何なのだろう?
無性に胸をざわつかせるこの感覚は。
寂しさ? もの悲しさ? 同時に肉親が号泣しているのを傍観しているようで、今すぐシロに駆け寄りたい。なのに、身体が動かない。押し潰されたように背中を丸めたシロは、容易に踏み込ませない空気を纏っている。それに今、不用意に言葉を掛ければ、逆に辛い思いをさせてしまう気がする。
……そっとしておこう。
タニアはシロから目を逸らし、部屋へ続く階段を見上げる。重い足を引っ張り上げるのに苦労していると、一階から戸の開く音が聞こえた。
空気の読めない伯父が、トイレにでも起きてきたのだろうか?
タニアは登ったばかりの階段を二段下り、再び一階を覗き込む。
お茶の間と食堂を隔てる戸から、マーシャが顔を覗かせていた。




