③ブルームーン
第二に、そして何より羨望の眼差しを向けられない理由が、「永遠」の本質にある。
〈月蝕〉に必要な〈発言力〉を支払える〈詐術師〉は、ごく限られている。当人が請求に応じられたからと言って、身近な人たちまでもが同じように出来る可能性はゼロに等しい。
世界一公平で世界一残酷な時の流れは、赤の他人から愛した人までを無差別に奪っていく。普通なら、いつかは自らの死と言う形で悲しみに終止符が打たれるだろう。だが不老不死を背負ったものは、周囲の人々が旅立っていくのを際限なく看取り続けなければならない。
〈詐術師〉は全生物の悲願である「永遠」を、人間が幻想した「地獄」に喩える。そして〈詐連〉の司法は、「不老不死」を死刑以上の極刑に位置付けている。一度死なせたくらいでは生温い外道は、無になることさえ許されずに、終わることのない寝たきり生活を科せられるのだ。
〈月蝕〉は〈姫〉さまだけの特権ではない。然るべき手続きを踏めば、自宅警備員でも永遠の命を手に入れられる――が、タニアは好き好んで地獄に落ちた話など聞いたことがない。
社会に尽くすために自分から地獄を選択し、筆舌に尽くしがたい苦しみを背負いながら、人々のために笑顔を浮かべる――。
それもまた高貴な血筋でもない少女が、皆の尊敬を集める理由だ。
選抜試験の常軌を逸した難易度には、〈月蝕〉の欠陥に起因する部分も大きい。
常人なら寝たきり確実の状態で誰かの世話を焼くためには、日々厳しい鍛錬を行わなければならない。特殊部隊以上に過酷なそれを毎日こなせる体力があるなら、三〇〇年に一人しか合格しない試験も突破出来るはずだ。
それ以上に〈姫〉には、永遠の苦しみと闘い続けるための強い精神力が求められる。過酷とは言え試験ごときで膝を折るなら、地獄に堪えられるはずもない。
〈姫〉への道が果てしなく狭い門なのは、先人の顔に泥を塗らないか、人々の尊敬を集めるに値するか見極めるためだ。同時にそれは、痛みに堪えられない一般人を篩い落とすためでもある。実際〈姫〉を目指す少女たちも、試験の難易度を「厳しさ」ではなく「優しさ」と捉えている。
「……私にだって判ってるよ、〈姫〉になるのが難しいことくらい」
一通り脳内の知識を眺めたタニアは、机の脇に目を向ける。
フックに掛かった赤いランドセルは、一年以上も外出していない。
〈ホータン〉のデパートで買ってもらった時には、鏡のように笑顔を映し取っていた牛革――。
五年後の部屋で見るそれは、油性マジックで書き殴られた罵詈雑言に塗り潰されていた。
肩紐や側面にぶら下がった巾着には、斜線、横線、直線と滅茶苦茶に重なり合った切り傷。切り口がむごたらしくほつれているのは、「なまくら」なカッターナイフで切り刻まれたせいだ。
「カブセ」と呼ばれる上ぶたにこびり付いた土は、くっきりと足跡を捺印している。いきなり背中を蹴られた時は、目の奥に火花が散って、咳が止まらなくなった。
「将来の夢」なんてテンプレな作文を音読させられてから、二年が経とうとしている。
花屋さん、ケーキ屋さん、冒険してアイドル――。
無難で適当な方便は、シャーペンとマス目の間に幾らでも転がっていた。
本音を喉に押し込み、周囲の頷く選択肢を口に出す――〈小詐校〉中学年にもなれば、誰もが、しかも何の気なしに行っている処世術だ。
本心を認めなかったところで、不誠実だと責める声が挙がったとは思えない。ただただ教室中に儀礼的な拍手が鳴り渡り、気持ちも的確な指示もない「頑張って」を連呼してもらえたはずだ。
正直者の原稿用紙を無視し、空気を読んだ夢を暗唱するべきか?
ギリギリまで悩んだ結果、タニアが選んだのは一晩掛けて作った悪文だった。
〈姫〉になりたい――。
一行目を読み上げた途端、案の定、教室中の〈言灯〉が揺れた。
確かめるまでもない――。
目に入る景色など決まっているではないか――。
聡明な胸の声に耳を貸すことなく、タニアは周囲を見回してみる。
作文を黙読し、自分の番に備えていたはずのクラスメイトたちが、弾むように笑い転げている。普段はスカートの丈くらいで渋い顔をする女教師も、丸出しにした歯を手で隠していた。
予想通りの風景を見たタニアは、皆の機嫌を取るように卑屈な笑みを作る。次いで震える目尻に力を込め、二行目に取り掛かろうとしていた唇を噛み締めた。
温かく励ましの言葉を掛けてくれなかったからと言って、皆を責めるつもりはない。仮に逆の立場なら、タニアもまた迷わずに爆笑していただろう。
小三にもなって〈姫〉になりたいと宣う?
テレビのヒーローを志望するほうがまだリアリストだろう。
〈姫〉の選抜試験を受けに来るのは、各々《おのおの》の出身地で神童の名をほしいままにしてきた才媛たちだ。受験の動機が「思い出作り」でもない限り、まともに喋れない内から英才教育を受けているのが当たり前。年相応の教室に身を置き、同年代のクラスメイトたちに作文を読み聞かせている時点で、タニアに希望はない。
事実、三〇〇年に一人しか合格者を出さない試験は、最高学府の入試問題より遥かに難しい。〈荊姫〉さまは雑誌のインタビューで、Ⅱ型超新星爆発の原理を説明させられたと答えていた。
何より要求される頭脳を物語っているのが、〈姫〉さまたちの顔ぶれだ。
〈乙姫〉さまは海洋研究機構〈ΧZG〉の顧問としても知られているし、〈灰被り姫〉さまは〈姫〉になる直前まで、〈詐連〉で五本の指に入る大企業に勤めていた。
〈灰被り姫〉さまがOL時代に開発した推進器〈イカサマニューバ〉は、陸上船から軍用のパワードスーツまで幅広く活用されている。〈姫〉に就任する前から、若き開発部主任として度々テレビに登場していた。
また志望者には〈月蝕〉に負けないだけの〈発言力〉、肉体的強さが求められる。〈灰被り姫〉さまが試験を受けた時は、日中の平均気温が五〇度以上、夜間は零度を切る絶海の孤島で、三ヶ月間サバイバル生活をさせられたらしい。
そんな死地を乗り切ってきた〈姫〉さまたちは、金メダリストも真っ青な身体能力を有している。
ネットの掲示板には「〈姫〉に一度見た技は通用しない」とか、「パンチのスピードが光速」とか書いてあった。タニア自身、屈強なSPが一〇人掛かりで動かせなかった流木を、マッチ棒のように持ち上げる〈荊姫〉さまを目撃したことがある。
〈姫〉の志望者たちは容姿の審査に備え、外見も仕上げてきている。試験会場で撮影された写真が、男性週刊誌の巻頭グラビアを飾るのは、受験シーズンのお約束だ。
〈姫〉が〈詐連〉の顔である以上、芸事や礼儀作法の習得も欠かせない。踊れるのは町会の盆踊りで習得したヲヴァQ音頭だけ、しかも毎食爪楊枝で歯の間をシーシーする跳ねっ返りなどお呼びではない。
部屋で真っ白な原稿用紙と向かい合っていた時から、タニアにはありありと見えていた。失笑の木霊する教室が、自分を包囲する冷たい眼差しが。
幼稚園で卒業すべき夢を語ったら、イジメに遭うかも知れない。今勉強をする場所に通えなくなったら、ただでさえ低い可能性が果てしなくゼロに近付くぞ――。
マス目を埋める度に鈍い痛みが頭を襲い、胸の中に絶叫が轟く。半狂乱に陥ったように割れた声は、原稿用紙が終わりを迎える二〇行目が近付くにつれて大きくなっていった。チカチカと気絶させんばかりに点滅する視界が、目前まで迫った火の手のようだったのを憶えている。
台形の面積の求め方すら曖昧なタニアにだって、身の安全を図る方法くらい算出出来る。でも本当のこと以外は書けなかった。確信があった。ここで自分を守るために嘘を吐いてしまったら、今後〈荊姫〉さまをまっすぐ見られなくなる。
躊躇いなくシャーペンを動かせた?
まさか、格好付けるにもほどがある。
落書きだらけの教科書、ゴミ箱に突っ込まれた体操着――あの時はペンを滑らせる度に、未来を先取りした光景が脳裏を過ぎった。明日から始まるだろう痛みに手が震えて、ただでさえ上手くない字をジグザグにした。
ただ同時に心にもない夢を書こうとすると、目の前に浮かぶ。
自分を守るために嘘を吐いた後ろめたさから、〈荊姫〉さまに顔向け出来なくなったタニア・ミューラーが。
〈荊姫〉さまを直視出来なくなった自分は、イジメの標的にされる姿よりずっと身体を震わせた。大好きな笑顔から目を逸らすことしか出来なくなるなら、冷笑されるほうが何万倍も――いや何億倍もマシだ。




