①スノーホワイト
「……あれ、寝ちゃってたのか」
タニアは目を擦り、枕にしていた机から顔を上げた。
闇に包まれた〈言灯〉に代わり、デスクライトが自室を照らしている。居眠り中に漏水した涎は、ノートに歯磨き粉の香りがするシミを作っていた。二時間掛けて書き写した年表が、墨を付けすぎたお習字のように滲んでしまっている。
六畳の部屋はまさに〈荊姫〉さま一色。
塗装の剥げたドアに所々破れた襖、クリーム色の壁は勿論、人の顔っぽい木目によく泣かされた天井まで、平面と言う平面がポスターの掲示板だ。
机の写真立てには、ツーショット写真が飾られている。「ツーショット」と言っても、タニア自身のプリクラと雑誌の切り抜きで偽造した品だが。
六段のカラーラックは、月メルや〈荊姫〉さまの伝記で乗船率二〇〇㌫。
タンスに腰掛けたぬいぐるみは、独りぼっちの布団に啜り泣きが付きものだった頃、添い寝してもらった恩人だ。リボンの掛かった箱から出した時は真っ白だった顔が、すっかり寝汗で黄ばんでしまっている。
「〈荊姫〉さまが見たら引きまくるだろうなあ……」
溢れる情熱のままに作り上げてしまったインテリアだが、最近は少し反省を覚えるようになってきた。時間が経つにつれて、冷静さを取り戻したのかも知れない。
東西南北どこを向いても、〈荊姫〉さまの顔が目に入るようにした部屋?
トレカの使用済衣装をくんかくんかするのが日課?
もはや「熱狂的ファン」で許容されるレベルではない。〈荊姫〉さまが然るべき機関に訴え出たなら、確実に判決が下る。今後、被告が〈荊姫〉さまの三〇㍍圏内に入ることを禁ず、と。
タニアに控訴の意思はない。むしろ裁判官の懸命さに賞賛の念すら覚えてしまう。仮に〈荊姫〉さまのご自宅が近くにあったら、タニアはマッハで忍び込む。日帰り出来る距離までなら、絶対に忍び込む。最悪でもブラシの毛くらいは試食せねば。
「……久しぶりに逢えたね」
タニアは目を閉じ、机の上の写真立てを胸に当てた。
記憶の中から聞こえてきた〈荊姫〉さまの鼓動は、遠くの汽笛のようにぼうっとしている。単純に歳月のせいだろうか? いや心が冷える度にヘビロテしたせいで、脳内のテープのようなものが擦り切れてしまったのかも知れない。
一方で瞼の裏に浮かび上がった天の川に、あの輝きの大河に衰えはない。そう、〈荊姫〉さまの懐から見上げた空は、カーテンの隙間から見える今日の星々よりも、遥かに強く煌めいている。
〈荊姫〉さまと過ごした日々が脳裏に浮かぶと、タニアの胸には果てしなく優越感が広がっていく。窓を開け、世界中に自慢したいと騒ぐ心は、大宇宙でも独り占めしたかのようだ。
反面、一度は独占したそれが、今は隣町のもっとずっと先にあることを考えると、堪らなく目の前が滲む。手放してしまったものの大きさに、身体の一部をなくしたような喪失感を覚えてしまう。
それにしてもなぜ今日、昔の夢を見たのか?
感情に少し整理が付くと、唐突な再会に戸惑いがこみ上げてくる。
〈ロプノール〉に越してきたばかりの頃は、〈荊姫〉さまの名前を呼ぶ必要もなかった。
軽めのおつむを枕に預け、目を閉じる――。
そんな世界一労力の求められない儀式だけで、夢の世界に〈荊姫〉さまが現れる。幕切れの判っているしりとりをすると、独りきりの布団がぽかぽかと温かくなった。とっくにセリフを丸暗記しているヒーローごっこは、目を閉じる前から続く震えを止めてくれた。
タニアが砂漠を焼く太陽と顔見知りになるにつれて、〈荊姫〉さまとの距離は開いていった。
伯父夫妻と過ごす時間が増える内に、タニアの背中にはマーシャの怒鳴り声が付きものになった。記憶の中の歓声に頼らなくても、夜のミューラー家は充分賑やかだった。お玉から逃げ回っていれば、自然と身体も温まる。いつしか〈言灯〉の消えた部屋で震えることもなくなっていた。
また時間が経つに従い、一つしか布団のない部屋に慣れてしまった部分もある。長々と〈荊姫〉さまを思い描けていたのは、一年か二年くらい。今では仰向けになった二秒後に、仕事熱心な睡魔がやって来る。布団どころか机を枕にしている日も少なくない。
それでも三、四年は、ポスターを目に焼き付けてから瞼を下ろせば、しりとりが出来た。だがここ数年はブロマイドをアイマスクにしても、爪を着けた殺人鬼くらいしか現れない。あまつさえ写真によっては、ノイズ混じりの音楽を聴いたような気持ち悪さを感じてしまう。
原因は違和感。
そう、本当に細かい違和感。
五感のどれかで証明出来るわけではないが、第六感が小さく訴え掛けている。
あれは本物ではない。
そう、支離滅裂だ。
誰に指摘されるまでもない。
馬鹿馬鹿しいのは、タニア自身が一番よく判っている。
そもそもタニアの記憶に残る〈荊姫〉さまは、曇りガラスを挟んだように霞んでいる。六年も経っているのは勿論、自分自身が幼かったせいで声さえロクに思い出すことが出来ない。鮮明に〈荊姫〉さまを映し取った写真に、しっくり来ようとするのが無理な話だ。
ひょっとしたら〈荊姫〉さまの夢を見なくなったのは、タニアが無意識に避けているからなのかも知れない。
布団の仲介を経た再会は、大の字のまま飛び跳ねてしまいそうなほどの喜びを与えてくれる。そしてそれ以上に、日々の苦難に立ち向かうための意気を再充填してくれる。
翌朝一番に見る日差しは、翡翠のように美しく清らかだ。雨や曇りの日も、湿気った空気に丸まりがちな背中が、負けるもんか! と直角に伸びる。
でも〈荊姫〉さまに抱き締められたことを思い出せば、そのきっかけになった出来事にも目を向けなければいけない。
本当なら会釈すら交わせなかったはずの人と、鼓動を重ね合う――。
両親の死体袋を目の当たりにしなければ、起こり得なかった。
〈荊姫〉さまと謁見した興奮が少しでも落ち着くと、もう駄目だ。布団から這い出たばかりの寝ぼけた頭に、食卓が浮かび上がる。底抜けの豪雨が降るまで、「いただきます」を聞かせていた食卓が。
チューリップのクッションが敷かれた予約席には、オムライスとコーンスープのフルコース。食欲をそそる湯気の向こうでは、両親が優しい笑みを浮かべている。
〈ロプノール〉での毎日に不満はない。
マーシャの手料理は炊飯器を空っぽにする完成度だし、誕生日にはプレゼントとケーキを用意してもらえる。お腹を痛めた子ではないからと言って、理不尽に殴られたり、罵声を浴びせられたりしたこともない。満一五歳に満たない少女に労務を強いると言う点で、労働基準法に抵触するっぽい店番も、ポテチの試食会と思えば楽しみでさえある。
それでも、タニアは六年前に水没してしまった食卓に、過去に手を伸ばさずにはいられない。
内臓を搾り出すように唸って、身を乗り出して、目一杯腕を伸ばしたところで、幻に過ぎないオムライスは掴めない。必死になればなるほど、指と指の間をすり抜けていく湯気が、取り付く島もない現実を突き付ける。一度昨日になってしまった光景には、絶対に絶対に触れられない、と。
何とか引き寄せられないかと爪を立てていると、六年前に味わった痛みが克明に甦る。同時に埋めようのない寂しさが募ってきて、晴れていようが雨だろうがお構いなしに背中を丸める。
〈荊姫〉さまと再会した喜びと、両親と死別した悲しみ――。
相反する感情が同時にこみ上げると、タニアは泣けばいいのか笑えばいいのか判らなくなる。
布団の中で〈荊姫〉さまの写真を見ようとすると、逢いたいと願う想いと痛みを味わいたくないと言う想いが綱引きを始める。結果、夢への切符である写真を握る手が、〈荊姫〉さまを見て取れるか取れないかと言う地点で硬直してしまう。
夜更けまで机に向かい、早起きのカラスがゴミを漁りだす前からジョギングする――。
日記も二日で付けなくなったサボり魔が、なぜ楽とは言えない日課を続けられるのか? 一体、汗を流す原動力となっているのは何なのか?
その質問の答えを、タニアは〈荊姫〉さまとの「約束」だと思っていた。でも改めて考えてみると、そこには曇りのない思い出を渇望する気持ちが隠れているのかも知れない。
タニア・ミューラーはもう一度〈荊姫〉さまと抱き合える距離に行き、今度こそ何の悲しみも痛みもない光景を目に焼き付けようとしている。目を閉じた後に待つのが快晴の景色なら、夢を見るかどうか逡巡し、日の出を拝まされることもないだろうから。




