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②薔薇と星

「おなか減っちゃったのかな?」

 丁寧に目の高さを合わせ、〈荊姫いばらひめ〉さまは女の子に尋ねる。それから桜色のハンドバッグを開き、ラップに包んだおにぎりを出した。

 市販品の支援物資にしては丸っこいそれを目撃した瞬間、女の子とのやり取りをうかがっていた人垣が大きくざわつく。驚くのも無理はない。常識的に考えるなら、台所に立つどころか箸より重いものは持たないはずのお方だ。


「おかかとしゃけ、どっちがいい?」

荊姫いばらひめ〉さまは両手に一つずつおにぎりを乗せ、交互に上げてみせる。

「……あのね、いなくなっちゃったの」

 女の子は硬そうに唇を開閉し、錆びた歯車のようにかすれた音を漏らす。一週間近く息しか吐かなかった喉が、言葉の出し方を忘れてしまったらしい。


「……おとうさんもおかあさんもいなくなっちゃった。わたし、ひとりぼっちなの」

 女の子の口調は、まるでATMの電子音声。

 泣き崩れてしかるべき事実を告げているにもかかわらず、ひどく淡々としている。

 死の絡む話題をこれほど無感情に語るのは、他人事ひとごとでもなかなか難しい。感情が凍ってしまっているのは勿論もちろん、受け入れるには過酷すぎる事態に現実味を持てないのだろう。


「……そっか」

 小声で答えると、〈荊姫いばらひめ〉さまはほがらかな笑みを曇らせていく。

 切なげに細められた瞳には、どこか遠くを眺めているような雰囲気がある。もしかして、独りきりの女の子に過去の〈荊姫いばらひめ〉さまを重ねたのだろうか。

「お姉ちゃんもね、いないの。お父さんもお母さんもお姉ちゃんがちっちゃな頃、遠いところに行っちゃった」

 幸福とは言えない昔話をする内に、〈荊姫いばらひめ〉さまは眉を寄せていく。


「もう逢えないって言われた時にはね、世界が粉々になる音が聞こえた。一週間くらいお布団の上でうずくまってたよ。お空にあるのがお日さまかお星さまかも判らなくなった。お腹がぐ~って悲鳴を上げるのも全然聞こえなかったっけ」

 気持ちを切り替えるためか、〈荊姫いばらひめ〉さまは深く息を吸う。いで特大の呼気が肩を沈めると、沈痛にシワを浮かべていた顔がほころんでいく。少し遠慮がちなのは、女の子に気を遣ったためだろう。

荊姫いばらひめ〉さまの頬に薄くえくぼが浮かぶと、雨雲の号泣する音が小さくなっていく。止めどなく汗を溢れさせる暑さも、心なし鳴りを潜めた気がする。


「でもね、その間、ずっと側にいてくれたの。お姉ちゃんのお兄ちゃんがお姉ちゃんを抱き締めてくれてた。そしたらね、お姉ちゃんにもよく判らないけど、胸がぽかぽかしてきたの。もうバイバイ出来ないと思ってた寒さや広さが、お父さんとかお母さんよりもっと遠いところに行っちゃったんだ」

「……わたし、おにいちゃん、いない」

「……そだね、でも私がいる」

 穏やかにしかし力強く言い切り、〈荊姫いばらひめ〉さまは女の子を抱き締めた。

 胸と胸が密着し、女の子の身体に〈荊姫いばらひめ〉さまの鼓動が響き渡る。独りの時には自分自身の体温すら感じられなかった胸に、柔らかな温もりが広がっていく。


 新鮮な刺激が、身体から離れていた五感を呼び戻したのだろうか。


 ブルーシートが、床にバスケットコートを描くビニールテープが、暗闇に閉ざされていた視界が鮮やかな色を取り戻していく。にわかに轟き始めた雨音は、ロクに水も飲んでいなかった喉に「渇き」と言う感覚を蘇らせた。

荊姫いばらひめ〉さまの鼓動が掻き消されると、服に付着した泥から腐った魚のような臭いが漂いだす。瞬間、女の子の脳裏に仮設テントで突き付けられた光景が甦った。



 寝袋にしては飾り気のない二つの袋――。


 申しわけ程度に一輪ずつ手向たむけられた白い菊――。


 不幸にも思考力を取り戻した頭が、女の子にその光景の意味を叩き付ける。


 もう二度と逢えない――。


 現実をの当たりにしてしまった女の子は、吹雪の中へ放り出されたように身体を震わせる。掛け替えのないものをえぐり抜かれた胸がきしみだし、激しく乱れた息が雨音を耳の外に追い出す。

 無言ではどうにも出来ない衝動が女の子の口を押し広げ、けたたましい泣き声が体育館中に轟く。決壊したように溢れる涙が、〈荊姫いばらひめ〉さまの綺麗なお洋服をぐしゃぐしゃに濡らしていく。


「大丈夫、大丈夫だよ。あなたは独りじゃない。お姉ちゃんが独りにしないから」

荊姫いばらひめ〉さまは懸命に言い聞かせながら、繰り返し女の子の背中をさする。長く大きく鼻をすする音が聞こえると、夏場の雨漏りにしては涼やかなしずくが落ちた。

 水滴にうなじをくすぐられた女の子は、〈荊姫いばらひめ〉さまの懐に沈めていた顔を上げる。涙を溜めた目に映ったのは、しっとりと頬を濡らした〈荊姫いばらひめ〉さまだった。


「お、おねえちゃんは、ターニャのおねえちゃんじゃないのに?」

 喘息ぜんそくまがいの咳で、鼻水を吸い上げる音でもみくちゃにされた声は、発言した本人が聞いても翻訳するのに苦労する。どこからが言葉か、どこからが嗚咽おえつか、何回聞いても自信を持って言い切れない。

 それなのに、〈荊姫いばらひめ〉さまはちゃんと質問が終わった瞬間に頷き、女の子を抱く腕に力を込める。再び女の子の顔が〈荊姫いばらひめ〉さまの胸に密着し、花びらを広げるスペースを失ったコサージュがくしゃくしゃに丸まる。


「うん、ずっと一緒だよ」

 曇りのない笑顔が、空の機嫌を直してしまったのだろうか。

荊姫いばらひめ〉さまが約束した途端、暴虐に鳴り響いていた雨音が、世界を沈没させんばかりだった雨音がゆっくりとしぼんでいく。窓と言う窓を塗り潰していた闇がにわかに薄くなると、黒雲の切れ間から天の川が覗いた。

 濡れたガラスから清浄な光が差し込み、〈荊姫いばらひめ〉さまを照らす。まばゆまたたく金髪が少女の瞳を細くすると、目尻にしぶとく残っていた涙が床に落ちた。

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