④ショータイム♡
「よ、よし! 次は身体ね!」
動揺のあまりつっかえながら言うと、タニアはボディソープに手を伸ばす。
スポンジを泡立てる途中、目に入った排水口には、湧き水のように透き通ったお湯が溜まっていた。少し顔を近付けてみると、マイナスイオン感たっぷりの爽快な香りが鼻を包み込む。茶色く濁り、刺激臭を漂わせていたドブは、もうどこにも存在しない。
「あ、あの、自分で出来ますから……」
なぜだろう……?
タニアには控え目に訴えるシロの声が、洗髪前より凛としているように聞こえる。考えていた以上に、外見は人の印象を左右しているのかも知れない。いきなり熱湯をぶっかけられたりしないように、今後は小綺麗な身なりを心掛けよう。
固く心に誓い、タニアは両手を握り締める。手の平のスポンジが潰れると、小さなシャボン玉が宙を舞った。
「ここまで泡立てれば大丈夫かな?」
目の前のシャボン玉を吹き飛ばし、タニアはシロの身体を磨いてみる。
スポンジを動かす側から、充分に膨らませたはずの泡がやつれていく。人体に使うことを想定したボディソープでは、毛穴にまで入り込んだ垢や土には太刀打ち出来ないらしい。これは自宅からラリエールでも持って来るべきだったかも知れない。
「やっぱ一回じゃダメか」
タニアは脇を締め、気合を入れ直す。落胆しないと言えば嘘になるが、髪を洗っていた時点で薄々予想出来ていたことだ。
「よい……しょっ!」
スポンジでほじくるようにして、シロの毛穴から固形的な汚れを掻き出していく。濾過されたばかりの排水口が再びドブに変わるまで、時間は掛からなかった。
無惨に萎み、茶色くなった泡を洗い流すほど、床のタイルが輝きを失う。反比例して、テント村っぽく黒ずんでいたシロの肌が、白色人種としての許容範囲に近付いていく。
四回濯いだ時点で、毎日のジョギングで日焼けしたタニアと同等。五回目の泡を洗い流すと、まだまだ白いとは言えないものの、クリーミーなレモン色が露わになった。
……これ、本当にボディーソープか?
疑わしくなってきたタニアは、あり得ないと言い聞かせる自分を躱し、薄紫の液体を手の平に出してみる。
さらさらした粘り気にラベンダーの香り――。
どう考えても漂白剤ではない。
にわかには信じがたいが、シロの肌はたかが表面の汚れを落としただけで、この汚れのない白さを発色させているらしい。
六回目の三助が半ばに達する頃になると、タニアは純白の泡とシロの肌との境目を完全に見失っていた。
少し握る力を弱めただけで、世界から摩擦が消えたような滑らかさが、スポンジをスリップさせる。椅子から転げ落ちそうになったタニアが、思わずシロの背中に手を着くと、きめ細かな肌がたおやかに波打った。瑞々しく張りのある感触は、新鮮なトマトそのものだ。
この柔らかな肌触りをいつまでも味わっていたい――。
本能に訴え掛ける欲求を押し殺し、タニアは泡を洗い流す。透明な水流がシロの背中を流れ落ちると、早朝の雪原のように玲瓏な光沢が顔を照らした。
金髪の合間から覗くうなじは、涼しげに水滴を纏っている。流麗と呼ぶにはいささか細すぎる腕は、うっすらと青紫の静脈を透かしていた。
健康体とは言いがたい様相を目の当たりにした途端、懸念が頭を過ぎる。
下手に扱おうものなら、新雪のように崩れ落ちてしまうのではないか?
常識的にはあり得ないと判っているが、もう二度と揉み洗いする気にはならない。ゼロ距離から水流を見舞っていたシャワーも、おずおずと後ずさっていく。
僅かに残った泡を洗い流すと、目の前から薄汚れた行き倒れの姿は消えていた。
今、椅子に腰掛けているのは、儚く脆い雪像だ。
汗臭く垢に塗れた野良犬と、純白の肌に金髪をあしらった雪像――。
ビフォーとアフターを並べて一〇〇人に訊いたら、一〇〇人がこう答えるに違いない。
同一人物ではない。
その手でシロを磨き上げたタニアでさえ、勘ぐらずにはいられない。
自分の目を盗んで、すり替えが行われたのではないか?
「お前、『あるびの』とかゆーのなの?」
シロは首を左右に振り、痛々しく赤らんだ二の腕をタニアに見せた。
「健康診断のお医者さんは、色素が薄いだけだって言ってました。日に当たるとすぐ赤くなっちゃうんです、茹でダコさんみたいに」
おどけた口調で言い、シロは唇を筒状にする。
「ふ~ん」
タニアは素っ気なく相づちを打ち、自分用の洗面器に並ぶ愛用品に目を向けた。社交辞令的には愛想笑いの一つも返すべきなのだろうが、どうしてもそんな気分にはなれない。
ノンシリコンのシャンプーに、椿油配合のトリートメント――。
月五〇〇〇イェンのお小遣いで揃えるにはなかなか苦しい高級品だが、着実に成果は出ている。
砂塵にキューティクルを削られ、使い古しのホウキのように痛んでいた髪は、しっとりと上品な潤いを得た。青空の下に出れば、煌びやかに陽光を反射し、いわゆる「天使の輪」を戴冠する。
何の抵抗もなく櫛を通すそれを、タニアは密かに誇っていた。そう、輝かしい赤銅色の髪は、手塩に掛けて育んだ自慢の逸品だった。
そのはずなのに、今はあまりの不出来さに一秒たりとも眺めていられない。
赤く錆びた針金のようにくすみ、ごわついたそれを頭に乗せていたことが、あまつさえ得意げにしていたことが、酷く恥ずかしく思えてくる。シロの頭を飾る金糸を見てしまったから。
ジョギングの前に日焼け止めを欠かさなかったはずの肌は、みっともなく焦げた茶褐色。丹念にボディクリームを塗り込み、ようやく完成させた滑らかな手触りが、シロに触れてからは無性にガサガサしている。まるで笹掻きにしくじったゴボウだ。
真実の姿に気付いて以来、タニアには鏡の中の自分が道端の石ころに見えて仕方ない。ちっぽけで見窄らしいそれは、大人しくしていれば誰の目にも止まらずに済む。にもかかわらず、わざわざ低い鼻を幟のように高くし、周囲の注意を冷笑を呼び込んでいる。
さあさあとせせら笑うような声を漏らすシャワーは、きっとタニアを嘲っている。ペンキ絵の高峰は普段以上に反り返り、自意識過剰な石ころを見下ろしていた。
今までも世界は、自分にこういう眼差しを向けていたのだろうか?
考えるのも恐ろしい自問が脳裏を過ぎり、湯気に包まれているはずの身体に寒気が走る。出来るなら頭からタオルを被り、世界中の視線を遮ってしまいたい。
「……はい、おしまい。お風呂入ってきなよ」
シロの背中を軽く押し、タニアは湯口を一瞥する。黙っていたいのを我慢して出した声は、自分自身聞き取るのに苦労するほどか細かった。
「本当にありがとうございました」
お礼を告げながら振り返り、シロは丁寧にお辞儀する。
垢を落として以来、鏡越しにしか見たことのなかった顔は、無垢な朗らかさをタニアに感じさせた。「若い娘」に弱い男は勿論、例え女性であっても、清潔感の漂う微笑に好感を持たない人は存在しないだろう。
反面、瑪瑙のように澄んでいるせいか、灰色の瞳はどことなく潔癖だ。汚れなくまっすぐな輝きは、裏表のない言動を強要されているような息苦しさを味わわせる。
「よいしょ、っと」
湯船の前にしゃがみ込んだシロは、手で湯加減を確かめてからお湯に浸かる。少し子供っぽいところがあるのか、顎までお湯に沈めたシロは、ブクブクと楽しげに気泡を連発する。
腰に達する長さの金髪が浮力に乗り、そよそよと水面を漂いだす。同時に天井の〈言灯〉が眩く反射され、ペンキ絵の高峰を照らした。光がお湯に差していた時とは比べものにならない明るさは、偉大なる高峰が日の出を迎えたかのようだ。




