②処刑タイム♡
「ほら、行こ♪」
小三の女児と更衣室ではち合わせた時にも成し遂げられなかった快挙に声を裏返すと、タニアはシロの手を引っ張り、スキップで浴場へ向かった。
真っ白に曇ったサッシを開いた途端、石鹸の香りのする湯気が視界を覆う。柔らかく全身が蒸されると、毛穴にまで染み込んだ油とソースの香りが煮沸消毒したように薄れていった。
じんわりと汗ばんでいく額だけ見れば、熱帯夜に等しい状態だが、不快感はない。むしろ先ほどまでは無神経に引き締めていた全身の筋肉が、ぶら~んと心地よく垂れ下がっていく。風呂の魔力は勿論、服を脱ぎ捨てたことによる解放感も影響しているのだろう。
銭湯に来るのが始めてなのか、シロは入口に立ち尽くしている。圧倒されたように見開かれた瞳は、浴槽の背後に描かれたペンキ絵に向けられていた。
万年雪に加えて水滴を纏った高峰が、群青の山肌を艶めかせている。浴槽から棚引く湯気に合わせて、松原が揺らめく様子はさながら蜃気楼。幻想的であると同時に不思議と色っぽくもある。
極東の最高峰を題材にしたそれは、タニアが呂風湯に通い始めてから何回も塗り替えられている。常に濡れているせいで褪色しやすいのだろう。
反面、題材が変わったことは一度もない。男湯には赤いバージョンが描かれていて、茜色の反射光は仄かに浴槽を色付かせている。
読みかけの月メルを思えばシロを急かしたいところだが、正直悪い気はしない。雄壮な大山に見惚れてしまうのは、タニアも一緒だ。
それ以上に昔馴染みのペンキ絵が、シロの目を釘付けにしていると思うと、何だか鼻が高い。妙かも知れないが、身内が誉められたような気分になる。
「ほら、こっち来なよ。身体洗ってあげるから」
少し待ってから呼び掛け、ピラミッド状に積まれた洗面器からシロ用の一つを取る。
本来なら身体を洗う前に、湯船で温まるのがタニアの流儀だ。
しかし今日は、薄汚い野良犬を連れている。
垢で黒ずみ、砂をまき散らすシロを、掛け湯程度で湯船に浸からせるわけにはいかない。澄んだお湯が肥溜めになってしまう。
差別主義者のカシムさんに報いを受けさせるのもやぶさかではないが、何せミューラー家の「若い娘」は心が広い。大海のように心が広い。三時前にお湯を沸かしてもらえなかったからと言って、営業に支障を来すような真似はしない。
幸い今はぱんつ一丁で昼寝していても、寝汗をかく季節だ。温まらずに身体を洗ったからと言って、風邪を引く心配もない。
寛大な結論を出したタニアは、洗い場の蛇口の下に洗面器を置く。続いて乱暴にシロの手を引っ張り、洗面器の前まで連行する。
「座れ!」
荒々しく命じると、タニアはプラスチック製の椅子目掛けてシロを押し込んだ。ぎゅっ! と首が胴体にめり込む勢いで頭を押されたシロは、見事にバランスを崩し、よろめく。そう、渾身のヒザカックンを受けたように。
悪いことにいつもは洗い残しでゴワゴワする床が、今日に限ってスケートリンクのように輝いている。「若い娘」と言うダイナマイトが、カシムさんの勤労意欲をボンバーさせてしまったらしい。
Q.よろめくシロ+濡れたタイル+ピカピカ=
A.すってんころりん。
「ぎゃっ!」
バク転っぽくシロが飛び、ゴン! と頭蓋骨粉砕確定な墜落音が響く。刹那、ウーファーな震動が浴室を駆け巡り、備え付けのシャンプーを軒並み倒した。
穏やかだった浴槽が一転、大時化と化し、激烈な水飛沫がペンキ絵を洗う。次から次へと洗い場に溢れ出す高波が、大の字のシロを水死体のように洗い流していく。
やっべ、今度こそ送検か? 脳天を強打する瞬間を目の当たりにしてしまったタニアは、恐る恐る仰向けのシロを覗き込んでみる。
脳的な部分にダメージを受けたのか、シロは白目を剥き、ぶくぶく泡を吹いている。ぱっと見はかなりヤバげだが、貧相な胸は一応上下していた。
ま、死んでなきゃいーや。
投げやりに自分を納得させると、タニアはシロの足を掴んだ。
浴室の入口まで流されていた水死体をずるずると引きずり、シャワーの真下まで運ぶ。続けて蛇口役のレバーを下ろし、シロの後頭部に水流を浴びせ掛ける。綺麗な川に出張中の意識を呼び戻すには、頭に水をぶっかけるのが一番手っ取り早い。
「うぎゃぁぁ!」
高圧洗浄機まがいの水流が炸裂した瞬間、スプラッタに木霊する絶叫。
コメツキムシの霊にでも取り憑かれたのか、シロは腹這いの状態からアクロバティックに跳ね、ムーンサルト的な放物線を描く。べちゃっと腹から落ちると、シロは滅茶苦茶に頭を掻きむしりながら床を転げ回り始めた。
「ンだよ、大袈裟だな。少し熱かった?」
やけに濃い湯気を掻き分け、タニアはレバーを確かめてみる。
ぬるま湯が出るように調節したはずのそれは、見事赤いマークの方向に振り切れていた。
呂風湯のシャワーは熱湯が出る赤いマークと、水が出る青いマークの間でレバーを左右させ、温度を調節するタイプだ。赤いマークの方向に振り切れば、一切遊びのない熱湯が出て来る。「カップヌードルが出来る温度だからね」と、小さな頃、タニアはマーシャに再三注意された。
「メンゴ♪」
自らの過ちに気付いたタニアは潔く謝罪し、お茶目に舌を出す。
「やっちゃった♪」な顔を見たシロは、ずざざざざ! と床を這い、洗い場の隅まで逃げた。やせっぽちにしては安産型の尻が衝突し、洗面器のピラミッドが崩れ落ち、シロを生き埋めにしていく。
どうも他人に灼熱地獄を味わわせたにしては軽いノリを見て、自分の命をどう思っているか理解したらしい。確かにタニアがシロの立場でも確信するだろう。生きて銭湯を出られない、と。
「おいおい、何で逃げるんだよ……」
逃げ惑うシロを眺めていると、タニアの口からは止めどなく暗い笑みが漏れていく。
次は何をされるのかと怯えきった表情に、弱々しく震える肩――「獲物」の一挙一動が狩りの愉悦を膨らませていく。そう、タニア・ミューラーの根底に、未だかつて味わったことのない充足感を広げていく。正常な性癖を踏み外すのって、赤信号を渡るよりずっと簡単だ。
憔悴しきった獲物を、一瞬で仕留めることは容易い。
――が、それでは面白くない。胸の渇きは癒えない。
ここはじわじわと恐怖を味わわせて、もっともっともっと恐怖に歪んだ表情を見せてもらうとしよう。適度に希望をちらつかせておくからこそ、絶望を突き付けた時にとびきりの花が咲くのだ。
ククク……ククク……。
期待を興奮を大きめの含み笑いに変えると、タニアは一歩一歩勿体を付けながらシロに忍び寄っていく。ひた……ひた……と不穏な足音が鳴り始めた瞬間、シロは慌てて洗面器の山から這い出し、男湯と女湯を隔てる壁に走った。
シロは長く伸びた髪を振り乱し、何とか壁をよじ登ろうとする。しかしタイルの継ぎ目に突き立てた爪は、キュッキュと無慈悲に滑るばかり。いたずらにジタバタする足は、虫かごから脱出しようとするフンコロガシのようだ。




