①バスタイム♡
呂風湯はミューラー商店から徒歩五分の近さにある。
人間界の寺社を思わせる建物は、初夏の日差しを浴びた瓦屋根をチカチカと瞬かせている。町並みから突き出た煙突が、太陽に黒い吐息を吹き掛ける姿は、地平線がタバコを咥えているかのようだ。
生温かい風が吹くと、藍染めの暖簾がそよそよはためく。玄関から漏れ出す湯気は仄かに硫黄臭く、窓を薄く曇らせている。
真向かいは立ち飲み屋も兼ねた酒屋。軒先のベンチでは、ひとっ風呂浴びたばかりのご近所さんたちがよく談笑している。ほろ酔い気分のオッサンたちに、ラムネをご馳走してもらえることも少なくない。
「いらっしゃいませ」
襲名挨拶のように恭しく言うと、カシムさんは三つ指付いて来客を出迎えた。
普段はタンクトップにステテコと言った装いの彼だが、今日はダブルのスーツを颯爽と着こなしている。残り少ない髪をヤナギのように垂らしているはずの頭も、ポマードでギラギラと輝いていた。
タニアの記憶が確かなら、老舗旅館のようにお出迎えされるのも今日が初めてだ。昨日までは番台に根を張り、スポーツ新聞を熟読していた。
脱衣場が一糸纏わぬ女体で溢れていても、チラ見一つしない。生身は生身でも平均年齢六二歳(タニア・ミューラー調べ)の熟れた肉体では、風俗面に太刀打ち出来ないらしい。
ウェルカムドリンクの一杯くらいは出して来そうな歓迎ムードも、最後尾のシロが暖簾を潜るまで。後に無人が続くと、カシムさんは大地震でも来たような剣幕で外へ飛び出した。鉛筆より小さく見える距離まで、後続を探しに行った。
「若い娘なんてどこにいるんだ!」
懸命の捜索活動から帰還したカシムさんは、息も整えずに声を荒げる。バーコード柄の頭から豪雨のように汗を散らすと、カシムさんはアルハンブラの胸ぐらを掴んだ。
「いるでないかあ!」
怒鳴り返し、アルハンブラはシロを指す。
非常に残念だが、こればっかりはタニアも身内を擁護出来ない。
砂埃で真っ黒な顔と言い、焼け出されたような服装と言い、シロを形容するのに「若い娘」と言う表現は不適切だ。アルハンブラが「ボロ雑巾」と言う形容詞を選んでいれば、不毛な争いが起こることもなかっただろう。
「お前の目は節穴かあ!」
「俺のトキメキを返せ!」
呂風湯の玄関を戦場に、罵詈雑言が応酬する。朱塗りの下駄箱の前では、火種になった「若い娘」がおろおろ右に行ったり、わたわた左に行ったりしていた。
タニアは目の前を通過するタイミングを見計らい、シロの手を取る。すかさずスタンディングスタートを切り、いい歳して顔を真っ赤にしたオッサンたちを尻目に女湯へ駆け込む。
「やりぃ! 一番乗りぃ!」
勝ち誇る声を追い、天井の高い脱衣場に会心の指パッチンが木霊する。
古めかしい振り子時計が正確なら、時刻は二時半。「若い娘」が来なければ暖簾が下りている時間帯なので、他の客の姿はない。
脱いだ服を入れておく籐のカゴも、脱衣場の隅っこでお行儀よく重なっている。よほど慌てて準備したのか、背もたれがガムテープで補修されたマッサージ椅子には、片付け忘れのバケツが腰掛けていた。
普段より少し時間が早いせいか、湯気で霞んでいないせいか、昼下がりの脱衣場は新鮮な空気を漂わせている。とても通い詰めている場所とは思えなくて、タニアはついしげしげと室内を眺めてしまった。
開け放たれた天窓から陽光が差し込み、床一面に敷かれた竹を艶めかせている。青く爽やかな香りにしばらく意識を向けていると、じりじり喧しかったセミの鳴き声も、どこか涼しげに聞こえて来た。
乾燥した洗面台には、ひび割れたドライヤーと干からびた石鹸が転がっていた。音叉そっくりの扇風機が顔を向ける度に、鏡の傍らに置かれた観葉植物が葉っぱを揺らしている。
「……ちゃんと水やってんのかな、アレ」
独り言を呟くと、タニアはビニール製のナップザックからシャンプーやコンディショナーを取り出した。中身を失い、扁平になったそれをロッカーに詰め込み、自宅から持参した洗面器を足下に置く。どちらも月メルの全員サービスで、愛おしい〈荊姫〉さまのイラストが描かれている。
「ほら、これに服入れて」
タニアは籐カゴを二つ取り、自分用を目の前に、シロ用を横に置く。
髪を束ねていたゴム、パーカー、ハーフパンツ――。
タニアはテキパキと手を動かし、オ・ト・メの柔肌を覆っていた品々を脱ぎ捨てていく。
一方、シロはブラウスの第一ボタンに手を掛けた状態で硬直していた。
「……平気だよね。平気だと思う。平気だと信じたい」
〈荊姫〉さまの使用済衣装を嗅いだ時に似た――そう、恐怖と不安に強張った顔。どうやらタニアの前で服を脱ぐことに、何らかの危険を感じているらしい。
タニアは閉口せずにいられない。
まったく自分を何様だと思っているのか。
肌を見せることに危機感を抱くなど、自意識過剰も甚だしい。
猿ぐつわや荒縄に直行させるのは、〈荊姫〉さまの裸体だけ。小汚い行き倒れを手込めにするほど、タニア・ミューラーは暇ではない。
「独りで脱げねぇなら、手伝ってやろうか?」
山賊ばりに凄み、タニアはドン! と床を踏み鳴らす。このままでは追い剥ぎに遭うと思ったのか、シロは覚悟を決めたように唾を飲み、おずおずとボタンを外し始めた。
「……だいじょぶ。だいじょぶ。スタンガンとかは持ってない」
タニアの一挙一動を注意深く窺いながら、シロはブラウスを脱ぐ。間髪入れずシロはマーシャの貸したバスタオルを巻き、胸を尻を理性を危うくする部分を隠した。
あくまで裸の付き合いを拒むその態度に、タニアは苛立ちを募らせるばかりだ。今ならAV嬢の三文芝居を見せられる男子の気持ちが判る。いいから早く脱げよ。
スカート、乳バンド、三角形の布――。
もぞもぞとバスタオルの下でシロが蠢く度に、衣服とは名ばかりのボロ布が床に落ちていく。どれもこれもゴミ箱行きが順当な代物だが、シロはそれを丁寧に畳み、一つずつロッカーにしまっていった。
バスタオル越しに言い切るのも早計だが、シロはあまり凹凸のある体型ではなさそうだ。特に胸部の脂肪は惨憺たる有様で、ボディコン状態のパイル生地が九〇度に近い角度を取っている。あれを登れと言われたら、プロのフリークライマーでも途方に暮れるだろう。
あからさまに劣る対象を再確認し、優越感を堪能しようとする浅ましさ――ゴホン、向上心の賜物である競争心に駆り立てられたタニアは、己の胸を確かめてみる。
……平均値よりは下だが、さすがに九〇度ってこたぁない。
うおっしゃぁ!
勝利の雄叫びが脳裏に轟き、心の中の自分が当確を報された政治家のようにバンザイする。喜びに水を差すのも何なので、「五〇歩一〇〇歩」と的確に現実を指す故事成語は見ないことにする。




