⑥ミュージックステーション
勢いよく脱ぎ捨てたせいで宙返りするスニーカーを背に、タニアは二階へ駆け上がる。マーシャが忍び足するだけで悲痛に軋む階段が、黙って踏み付けられているはずもない。たちまちズンドコズンドコ暴れ太鼓のような重低音が轟き、厨房からお決まりの怒声が上がった。
「ご近所迷惑!」
ベヒーモスそっくりの雄叫びもどこ吹く風なタニアは、バタン! と自室のドアを開く。ゴソッ! と机の引き出しを開け、クッキーの缶を流用した宝箱をかっ攫う。廊下にとんぼ返りし、食堂に駆け下りると、腕を組んだマーシャが阿修羅のような形相で出迎えてくれた。
「ボ、ボンクラのお前でも、さすがに顔を見れば思い出すだろ?」
なるべくお玉を見ないようにしても、死への恐怖が声を震わせる。はたして明日のお天道さまは拝めるだろうか?
答えの出せない自問をひとまず脇に置き、タニアは逆さになっていたスニーカーを履く。手汗で滑る宝箱を抱え直すと、タニアはかかとを踏みながらシロに歩み寄った。
布巾で念入りにテーブルを拭い、クッキーの缶を置く。少し歪んだフタをこじ開けた途端、無理矢理詰め込んでいた財宝の山が溢れた。
缶バッジに雑誌の切り抜き、ブロマイドにキーホルダー。勢い余って床に転げ落ちたのは、似顔絵の焼き印が押された饅頭。開封されることなく、賞味期限を過ぎてしまった非業の品だ。
「じゃじゃーん! まずはこれ!」
宝箱の底から目的の品を引っ張り出し、全力で掲げる。
高らかに天を貫いたのは、パステルカラーのマキシシングルだった。
パッケージを飾るのは、セーラー服を着た三人組。胸元のリボンは各々《おのおの》のイメージカラーで、黒髪ロングの〈乙姫〉さまが紫、おかっぱ頭の〈人魚姫〉さまが青、金髪の〈荊姫〉さまが桜色になっている。
「知ってるでしょ!? 知らないはずねぇべ!? 〈KHM〉! 〈荊姫〉さまが〈乙姫〉さまと〈人魚姫〉さまと組んでた伝説のユニット!」
捲し立てるように解説すると、タニアはケースから爪楊枝大の針〈音針〉を取り出した。七色に光るそれをテーブルに立てると、針先にぽうっと灯りが点る。淡い光はゆっくりと卓上に広がり、.蚊取り線香そっくりの渦巻き模様を描いていった。
「さあ、神曲の始まりだあ!」
DJっぽい口調で宣言し、タニアは軽く〈音針〉を押した。
丸い頭をあっちへふらふらこっちへふらふらさせながら、〈音針〉が光の渦へ漕ぎ出す。瞬間、針先から煙状の五線譜が棚引き、甘々《あまあま》なポップを奏で始めた。
「……私、私ね、短パンを穿かせて下さいって言ったんです」
唇を噛み締めそうになりながら、シロは何とか絞り出す。忌々しげに歪んだ瞳は、〈荊姫〉さまの下半身を見つめていた。
チアリーダーばりに短いスカートが、白い太ももを露わにしている。磨いたリンゴのように艶やかな光沢が、何とも甘酸っぱい。
「でも、ぷろでゅーさーさんがダメだって。びっぐまねーにならないからって。私、私、あんな脱いじまったほうがマシな格好で、大勢の男子の前に……」
放心したように呟くと、シロは光を失った目で天を仰ぐ。あれだろうか、女の子の一番大切なものでも無理矢理奪われちゃったのだろうか? 何にしろ、嫌いではない表情だ。
「まだ思い出せないのかよ」
愚痴りながら、タニアはテーブルの脚を軽く蹴っ飛ばす。
「じゃ、これは? 〈荊姫〉さまの使用済衣裳付きだよ」
自慢しながら宝箱を漁り、ピンクの布切れが付いたトレカを取り出す。伯父夫妻は勿論、三歳以来会ったことのなかった親戚からまでお年玉を徴収し、ヨフオクで落とした逸品だ。
「嗅いでみろよ、特別に許可してやっから」
「か、嗅ぐ?」
半笑いで聞き返したシロは、耳に水が入った時のように何度も頭を振る。どうやら聴覚の不具合を疑っているらしい。
「ほぉら、こうやって顔を埋めれば……」
ぐへへ……と垂れてくる涎を啜り、タニアはトレカに鼻を密着させた。
昨日も一昨日も今朝もそうしたように、布切れをくんかくんかする。
クッキー缶の鉄臭さに、防虫剤の樟脳――。
障害となる臭いを無数に嗅ぎ分けると、甘い残り香が漂い出す。同時に口角がニヤリと吊り上がり、ハァハァと荒い息を漏らし始めた。
ひぃ……。
唐突に掠れた悲鳴が上がり、小さく歯を鳴らす音が〈KHM〉の歌声に合いの手を入れる。トレカに頬擦りしていたタニアが顔を上げると、涙目になったシロが膝を震わせていた。生理的嫌悪を露わにした顔は、男子にリコーダーでも舐められたかのようだ。
「嗅がないの? いい臭いするのに」
最後にもう一度、蠱惑的な香りをスーハーし、タニアはトレカを宝箱に戻した。
入れ替わりにピンク色の詩集を取り出し、シロに突き付ける。暗唱出来るほど読み込んだせいで、ボロボロになったそれを目撃したシロは、ボディにいいのでも貰ったように「おぉう……」と唸った。
「毎晩、毎晩だよ! 私、毎晩朗読してるの! 〈荊姫〉さまの『ぽえむ』!」
「ぽえむ」とオ・ト・メなら抹消したい過去の一つや二つもある単語を耳にしたシロは、さーっと顔面を蒼白に染めていく。何かを哀願するような眼差しは、保健所のヘルハウンドにそっくりだ。
――が、そんなんお構いなしに瞼を下ろすと、タニアは脳内に焼き付いているぽえむに目を向けた。知的かつ叙情的なフレーズが視界に入ると、心からの陶酔がタニアの頬を火照らせていく。
「ああ、おひさまはどうしてまぶしいんでしょう。ああ、おほしさまはどうしてきらきらなんでしょう。ああ、おなかはどうしてへるのでしょう」
「あー!」と四回目の「ああ」にハモったのは、サイレンまがいの絶叫。
何事だ!?
反射的に背中を震わせ、タニアは瞼を跳ね上げる。
顔を真っ赤にし、両耳を押さえたシロが、三六〇度回転しそうな勢いで首を振っていた。
「邪魔すんじゃねぇよォ! まだまだ続くんだゼェ! 素敵なぽえむはよォ!」
レディースばりに巻き舌し、タニアはカウンターの椅子を振り上げる。
目からハイライトをなくしてみたり、生きた赤色灯になってみたり、こいつは一体何がしたいのか。いちいち突っ掛かってくるなんて、〈荊姫〉さまをディスってるとしか思えない。
「お願いです。お願いします。私、何でもします。靴底を舐めろと言うなら舐めます。目でスパゲティも食べます。だからもう許して下さひぃ……」
必至に慈悲を乞いながら、シロはタニアの袖にすがりつく。暴虐的に唾を散らすタニアと、悲痛に跪くシロ――入口のサッシに映る二人組は、娘をカタに取られようとしている父親と、悪い借金取りそのものだ。
「チッ、しょーがねーな」
ご近所の目が気になってきたタニアは、仕方なく宝箱に詩集を戻す。その姿を見届けると、シロは大きく息を吐き、ぐったりと椅子にもたれ掛かった。老けた。めっきり老けた。ミイラみたい。




