⑤開運! なんでも鑑定団
「この人はね、〈人魚姫〉さまなんかとは大違い! と~っても礼儀正しいの! 掃除のおばちゃんにも頭下げるんだから! プライドの欠片もなくぺこぺこする姿なんて、下請け工場の社長そのものだったよ!」
「……いえ、別に腰が低いわけじゃないんです。単純にちやほやされるのに慣れてないんです。元がド田舎の貧乏人だから」
何やらもごもご呟くと、シロはカツ丼を呷り始めた。
カツとご飯を箸の間に挟み、口へ→おしんこで箸休め→付け合わせのみそ汁を啜る――とお膳の重さを胃に移すローテーションは、出始めのポリゴンみたいにカクカクしていた。もうみそ汁なんて一滴も残っていないのに、ひょっとこ型の唇をお碗にくっつけている。
「それにすっごくものを大切にするの!」
熱弁し、大粒の汗を散らし、タニアは厨房のカラシを取る。チューブの尻を摘み、先端を大きく振ると、底や中程に溜まっていたカラシが口の部分に集まっていく。
「あの人に教えてもらったの! こうやって振ると、搾れなくなった歯磨き粉もまた出るようになるって! 遠心力の働きで、チューブの中身が先っぽに集まるんだって!」
「……別に倹約してるつもりはないんです。そうしないと生きていけなかったんです」
モップに道を空ける背中、
二人で顔を真っ赤にし、ひねり出した歯磨き粉――。
忘れようもない記憶が燦然と輝き、あの人への愛おしさを募らせていく。いてもたってもいられずにポスターを抱き締めると、頬がぽっと上気し、恍惚とした呼び掛けが溢れた。
「あぁ、〈荊姫〉たまぁ……」
ボフゥ!
ラブコールを掻き消したのは、噴火まがいの爆音。
カツ丼を溜め込んでいたシロの口が、暴発する音だ。
揚げたパン粉と米粒が散弾のごとく乱舞し、シロの前にいたタニアをハチの巣にしていく。白い奔流が視界を奪い、ブリザード的な痛みがタニアを襲う。
タニアはきぇぇ! と奇声を発し、反射的に後ろへ跳ぶ。瞬間、丁度いい位置にあったカウンターがタニアの後頭部に炸裂し、目の中にお星さまを散らせた。
壁の鏡に理想的な白目が映り、この世のものではなさげな暗闇が意識を呑み込む。すんでのところでお花畑から舞い戻ると、タニアはコンクリの床に俯せていた。
ごほっ! げほっ! げぇっ!
シロは激しく咳き込み、がむしゃらに手足を振り回している。力の限り肩を回し、何回も何回も目の前を掻く様子は、カナヅチのクロールに他ならない。
ああ、熟したリンゴのように真っ赤だった顔面が、見る見る青紫に変色していく。何かが喉に詰まり、酸素の供給を阻んでいるらしい。
「あにすんだ!」
咆哮すると同時に跳ね起き、タニアは月メルをシロの背中に叩き付けた。
衝撃がシロの全身を揺さ振り、奴の口から白米の塊が飛び出す。すぐさま世界中の酸素を飲み干すような呼吸音が轟き、青紫だったシロの顔に血色が甦っていく。
考えてみれば、背中を叩くのは餅を喉に詰まらせた時の最善策だ。一撃食らわせる時には、背骨の粉砕しか頭になかったが。
「やれやれ、本当にすぐ沸騰するんだから、この子は」
愚痴ると、マーシャは濡れ布巾を取り、米粒まみれになったタニアの顔を拭う。乾布摩擦のようにゴシゴシされたせいで、タニアの鼻は真っ赤になった。
「ポスターが汚れたらどうする気だ! 家宝! 家宝になる予定なんだぞ!」
「ず、ずびばせん。ちょっと取り乱しちゃいました」
シロは慌ただしく頭を下げ、鼻水と一緒にちょろっと出ていた麺を吸い上げる。更にお冷やを飲み干し、息を整えると、散発的に続いていた咳がようやく治まった。
「ポスターなら店を開くほどあるだろうに」
暴論を吐き、マーシャは大きく肩を落とす。タニアは無理解な大人を睨み付け、凡人には価値の判らない宝物を抱き締めた。
「違うの! 一枚一枚違うの! トーシローには判らないの!」
「はいはい、判ったからさっさと顔を洗っておいで」
正論を右から左へ聞き流し、マーシャはシンクを指す。タニアは剥き出しにしていた犬歯を引っ込め、渋々厨房へ走った。一気に蛇口を捻ると、生温かい水流が排水口を打つ。
両手で水を掬うタニアを見届けると、マーシャはシロに視線を移した。
「にしても、シロちゃんのその反応……」
思わせぶりに片笑み、マーシャはシロに顔を寄せていく。何かを勘ぐるように見つめられたシロは、あわあわと口を震わせ始めた。
「随分と〈姫〉さまたちの内情にも詳しいし、確か〈ブロッケン〉は〈荊姫〉さまの故郷だったよねえ?」
「あ、あの、た、たわし、いえ、わたしはその……」
粘っこく問い掛けられたシロは、額を鼻を首を汗の放水路に変えていく。割り箸の容器にしがみつき、ビクビク肩を震わせる姿は、始めて留守番を任された幼児が、クマさんのぬいぐるみを抱き締めているかのようだ。
「よし判った!」
豪快に言い切り、力強く頷き、マーシャはパチン! と手を叩く。鼓膜を殴打する高音に脅かされたのか、シロは垂直に背筋を伸ばし、両腕を身体の側面にくっつけた。まばたきを忘れ、目を充血させた姿は、極度の緊張に晒されているようにも思える。
金縛り状態のシロを見定め、マーシャは大きく息を吸う。見せ付けるように胸を膨らませると、マーシャはシロの顔面に人差し指を突き付けた。
「シロちゃん、〈荊姫〉さまのご学友だね!」
ぷしゅ~。
自信満々な大声に続いたのは、風船の空気が抜けるような音。
座ったまま「気を付け」していたシロがへなへなと萎み、テーブルにへばり付く。
「ま、まあ、そんな感じっスかね」
ぼんやりと肯定したシロは、引きつった笑みを浮かべ、クドいほど顎を沈める。
「え! ええ!?」
嬉しいサプライズを絶叫に変えると、タニアは手の平の水をシンクに投げ捨てた。厨房側からカウンターを跳び越え、最短距離でシロに駆け寄る。
期待と興奮が武者震いを呼び、洗ったばかりの顔から水滴が飛び散る。超局地的なゲリラ豪雨はシロを直撃し、ブラウスをスカートをびしょびしょに濡らした。
「ほんと!? 逢った!? お話しした!? ねえ!?」
「えっと、話し掛けたらイタいような、ないとは言い切れないような……」
「仲いい!? 仲いいの!?」
「好きなような、嫌いなような……」
「知ってるの!? 結局どうなの!?」
「誰より知ってるような、やっぱりよく判らないような……」
「んだよ、はっきりしねーな!」
タニアは捨て台詞を吐き、シロを軽く突き飛ばす。
「ひょっとしてあんま話したことないとか? ま、当然だよね。幾ら〈荊姫〉さまが誰にでも分け隔てなく接する人でも、お前とじゃタイプが違いすぎるもん」
〈荊姫〉さまは南向きのテラスで、ご学友とランチなさっているお方。
対してこの行き倒れは、北向きの便所で独り弁当箱を開いている人種だ。
月とスッポン――いやダイヤモンドと便所コオロギな二人が言葉を交わしたことなど、数えるほどしかなかったに違いない。口を半開きにしているのがデフォなシロは、おつむの出来がいいほうでもなさそうだ。何回か会話したことがあっても、憶えていないだろう。
「しょーがねーなー! 数少ない記憶が甦るように、この私のコレクションを見せてやるよ!」
意気揚々と胸に拳を叩き付け、タニアはお茶の間に続くサッシへ走った。
住居部分と食堂を隔てるそれに肉薄すると、薄汚いガラスに紅潮した顔が映る。自己顕示欲を燃料にし、激しく燃え立つ瞳は、人気番組「なんでも鑑定だ!」に出て来る骨董好きのオヤジに他ならない。記憶に録音したばかりの「しょーがねーな!」が、「四の五の言わずに見ろ! 見やがれ!」に修正されるまで時間は掛からなかった。




