④眠れる森
「ブブブブ〈ブロッケン〉に住んでたの!?」
噛み付かんばかりの剣幕で詰め寄られたシロは、カツ丼を詰めた口を半開きにしている。反射的に閉じた目は、一向に開かない。いや、目を瞑っているように見えているのだ。困惑のまばたきを超高速で繰り返しているせいで。
「住んでたの!? どうなの!? ええ!?」
押し売りまがいの口調で恫喝し、タニアはテーブルを連打する。ひき肉しか詰まっていないはずの焼売が、バネでも内蔵していたように跳び上がった。
「ひゃ、ひゃい」
シロは怯えきった顔で答え、配膳用のトレーを盾のように構える。
「じゃあ! じゃあ! じゃあ!」
鼻息を荒くしたタニアが迫るほど、圧倒されたシロが仰け反っていく。限界までリクライニングした結果、額とつま先が一直線になると、腹筋の悲鳴を代弁するかのようにシロの全身が震え始めた。
「こ、これ、この人! この人知ってる!? ちょいと、ご存知!?」
早口で捲し立てると、タニアはシロの鼻先に月メルの巻頭ポスターを突き付けた。
油絵のようなタッチで描かれているのは、荊の樹海に埋没した古城。
一〇〇年の夜に閉ざされた空は漆黒に染まり、鉛色の闇が地上を覆っている。何重にも蔦を絡ませ、肥大化した城壁は、見るものに鉄壁の意思を伝えていた。誰も逃がさず、何者にも足を踏み入れさせない。
イラストの中央を飾るのは、眠りの呪いを受け、頑なに瞳を閉ざす少女。
純白のドレスには、大輪の花を模したフリルが惜しげもなくあしらわれている。プラチナに真紅の宝石を填め込んだティアラには、精緻にアラベスク模様が彫り込まれていた。透き通ったように煌めいているのはシルクの手袋で、こと細かにトレードマークの薔薇が刺繍されている。
ガラス細工のように華奢な身体は、繊細な透明感を、潔癖なまでの儚さを感じさせる。十字架に架けられたように伸ばした腕には、無数の荊と共に燦然と輝く金髪が絡み付いていた。
瑞々しく桜色を滲ませる唇は、さしずめ朝露を浴びた白桃。長い睫は黄金のように眩く、流麗にカールしている。肌は病を疑わせるほどの白さで、うっすらと血管を透かしていた。
新雪に足を踏み入れるような背徳感を押し殺し、タニアはポスターに触れてみる。ご尊顔に指を乗せた瞬間、凛とした冷たさが手の先端から背筋へと這い上がっていく。真冬の清流に手を差し入れたようなこの感触――たかがインクと光沢紙の合作とは到底思えない。
「ほえ~、きれいな人ですねえ~」
ボケた老人のように口を空け、シロは小学生レベルの感想を漏らす。
世界一の美術品を拝見させてやったのに、それだけか!?
直喩や暗喩を駆使した賛美はないのか!?
語彙力の低さに唖然とするタニアを余所に、シロは顎まで垂れた鼻水を拭う。仰向け同然だった身体が起きると、締まりなく開いたシロの口から細い涎が滴った。
近年稀に見る間抜けヅラが、神秘的な古城にいたタニアをカビ臭い現実に引き戻していく。脱力感が沈黙を生み出すと、ぷーぴー、ぷーぴーとチープなラッパが店内に響き渡った。〈リヤシップ〉を引いたお豆腐屋さんが、近くに来ているらしい。
「と、とにかくね! この人はすっごいんだよ! きれいなだけじゃないんだから!」
無理矢理に声を弾ませ、タニアは自分を鼓舞する。何としてでもこの呆けた空気を追い払い、萎えかけた気持ちを奮い立たさなければならない。
あの人のポスターを何度も何度も見返すと、洗面器を持つ人々の足音が小さくなっていく。代わりに荒々しい鼓動が耳の中を占拠し、鎮火されつつあった情熱の炎がよろよろと火の手を伸ばした。
「よし! 今日は特別に、私がこの人の偉大さをレクチャーしてやる!」
一方的に宣言すると、タニアは腕捲りし、シロに掴み掛かる。極限まで間合いを詰められたシロは、ひっ! と短く悲鳴を上げ、空っぽの丼を頭に被った。
「はぁ、まったく……」
ヘルメット姿のシロを見たマーシャは、肩を落としながらタニアに歩み寄る。続いてパーカーのフードを吊り上げ、タニアをシロから引き剥がした。
フードを引っ張り上げられたせいで、前襟がタニアの喉に食い込む。ぐぇっ! と自分でも意図しない声が漏れ、首吊り死体のように空いた口から舌が飛び出す。
「お前はこの人のことになると、すぐ沸騰するんだから」
渋い表情でボヤき、マーシャはタニアをカウンターに送還していく。あまつさえ宙ぶらりんのタニアを振りかぶり、元々座っていた椅子に投げ捨てた。
演説会を妨害されたタニアは、当然のごとく頬を膨らませ、抗議の意を表明する――が、即座に頬の息を排出し、渾身のスマイルを作る。お玉、お玉だ。マーシャはお玉と言う鈍器で、壁を試し打ちしている。一刻も早く文句がないことを伝えないと、尾てい骨を砕かれてしまう。
「この人はね、〈姫〉就任の最年少記録保持者なの」
タニアは一度口を閉じ、教育的指導が入らないレベルまで息を整える。
非人道的兵器(お玉)の脅威が間近に迫っても、やっぱりダメだ。あの人の話題になると、喋るだけで自然と声に力が入ってしまう。
「〈姫〉就任の最年少記録保持者……」
ご飯に虫でも混入していたのだろうか。
タニアの発言を繰り返した途端、シロは目を見開き、カツ丼を凝視する。完璧に静止した顔とは裏腹、割り箸を持つ手は滅茶苦茶震えていた。
「〈白雪姫〉さまの一七歳って記録をね、二歳も更新したんだよ」
「へ、へえ~、一五で〈姫〉になったんスかあ~、パねえっスねえ~」
あまりの偉業に畏れをなしたのか、シロは震え声で賞賛する。バイブ中の割り箸が更に残像を増やし、間に挟んでいたカツが丼の中に落っこちた。さっきからタニアと目を合わせないのはなぜだろう。
「ねえ、シロは誰推し? やっぱ女の子に一番人気の〈美髪姫〉さま?」
「推してるって言うか、唯一まともだと思うのはソフィアさん……い、いえ、〈灰被り姫〉さんですかねえ。右も左も判らない時期に色々教えてくれましたし」
「あんな年増!」
ばっさり切り捨て、タニアは腰に手を当てる。
鏡に映る得意げなポーズは、タニア自身が見ても若干暑苦しい。
「ほら、男子には〈人魚姫〉さまが一番人気じゃん? あの弱々しいって言うか、いかにも幸薄そうな感じがほっとけないみたいな。〈姫〉さまたちの中でも特に美人だしね」
評論を終えると、タニアは月メルをパラパラし、「真珠の涙」の表紙を出す。
マーメイドラインのドレスを纏った〈人魚姫〉さまが、夜更けの海を見つめている。
曇りのない銀髪に、サファイアのような瞳――蒼白の月光に照らされた横顔は、実に精彩だ。厳粛ささえ感じる神秘性は、人間が描くと言う宗教画に他ならない。
「でもアイツ、絶対キャラ作ってんぜ。気弱な女子とかこの地球上に存在しねぇもん。裏じゃスタッフさんとかアゴで使ってんぜ。裏アカは放送に堪えない内容だぜ」
「……ま、まあはずれてませんね。寝起きとか前科持ちみたいな目してるし」
辛い体験でも思い出したのか、シロは重い影を背負う。しきりに腰をさする姿は、強烈なキックでも浴びたかのようだ。




