第三話 森の風来坊「ナナシ」
河南の山道は、朝露に濡れていた。
まだ陽が昇りきらぬ山の稜線を、白い靄が覆っている。
小鳥の声と、遠くの滝の音が重なり合い、薄く冷たい風が肌を撫でた。
道を外れれば、すぐに深い森。
踏みしめるたびに湿った土が沈み、草の匂いが立ちのぼる。
ひかりは腰の木刀〈樹〉の柄に手を添えながら、慎重に歩を進めていた。
旅に出て十日。
屋敷で聞いていた以上に、外の世界は荒れていた。
風は冷たく、道は狭く、そして――静かだった。
「……理を学ぶ旅、か。
誰に教わるでもないけど、まずは歩くしかないんだな」
独り言が霧の中に溶けていく。
ひかりは道端の石に腰を下ろし、布包みを解いた。
中には干し飯と、味気ない塩。
竹筒の水で喉を潤しながら、遠く霞む山並みを見上げる。
――風が止まっていた。
その静けさに、かすかな違和感を覚える。
鳥の声も、虫の音も途絶えた。
次の瞬間、背後で「パキッ」と枝が折れる音がした。
反射的に木刀を抜く。
空気が一気に張り詰め、ひかりの頬をひとすじの風がかすめた。
「……おやおや。いきなり抜くたぁ、おっかねぇ嬢ちゃんだな」
声は、頭上。
見上げると、一本の木の枝に人影があった。
黒い外套を羽織り、ぼさぼさの黒髪。
片足を枝にかけ、もう片方をぶらりと垂らしている。
笑っているような、眠たげなような目元。
だが、その視線の奥には、獣のような鋭さが潜んでいた。
「……誰ですか?」
「誰でもねぇよ。風みてぇなもんさ」
「風……?」
「そう。“風来坊”って呼ばれてんだ」
そう言って、男は枝の上からひょいと飛び降りた。
軽い音一つ立てず、落葉の上に着地する。
――理の流れが、かすかに揺らいだ。
(今の……理? でも、五行のどれでもない……)
ひかりは木刀を構えたまま、警戒を解かない。
「落ち着けって、嬢ちゃん。
そんなに睨まれたら、風も止まっちまう」
男は両手を上げ、へらりと笑う。
「名前は?」
「ナナシ。名乗るほど立派なもんじゃねぇけどな」
「ナナシ……」
「おう。あんたは?」
「結城ひかり。理を学ぶ旅の途中です」
「理の旅? ほぉ、面白ぇな。
お堅い坊主でも武人でもなさそうだ」
「“禁忌の理”と呼ばれる光を……自分の手で確かめたくて」
ナナシの目が一瞬だけ細くなった。
その瞳の奥で、風が渦を巻くような気配がした。
「禁忌ねぇ。
ああ、そういうの、だいたい“怖がりが決めた掟”だ」
そう言って、彼は指をパチンと鳴らした。
風が、彼の周囲を走り抜ける。
草木が一瞬だけ傾き、葉が宙に舞った。
「お嬢ちゃん。理ってのはな、抑えるもんじゃねぇ。
流すもんだ」
「……流す?」
「そうよ。
風は止めた瞬間に腐る。
理も心も同じだ。止めりゃ濁る、流しゃ澄む」
その言葉に、ひかりの胸がざわついた。
父が教えたのは“理を制御せよ”という教えだった。
けれど、この男の理は――どこまでも自由で、美しかった。
「あなたの理、五行のどれでもない。
でも……綺麗」
「ははっ、嬉しいねぇ。
俺の理は“風の理”だって言われたこともある。
けどそんなもん、名前をつけた途端に弱くなんだ」
「……理に、名前を?」
「おう。
名前は枠だ。
枠を作った時点で、流れは止まる。
だから俺は、名も理も、いらねぇ」
ナナシは腰の刀に手を添えた。
鞘には傷ひとつないが、異様な静けさをまとっている。
「見てみろ」
その瞬間――風が動いた。
木々が鳴り、空気が裂ける。
ひかりの頬を切るほど鋭い風が走り抜けた。
次の瞬間、目の前の枯れ枝が音もなく断たれていた。
切り口は鏡のように滑らか。
「これが“風斬り”。
理を形にせず、ただ流れを乗せる」
「……見えなかった……!」
「見せるもんじゃねぇ。感じるもんだ」
ナナシは笑った。
だがその笑みには、どこか寂しさが混じっていた。
「なぁ、嬢ちゃん。
理を学びたいなら、形にすがるな。
“理”はな、斬るもんじゃなくて――一緒に流すもんだ」
ひかりはその言葉を胸に刻むように、静かに頷いた。
その瞬間、心の奥で何かが解ける音がした。
「……ナナシさん、ありがとう」
「礼はいらねぇよ。風は気まぐれだ。
お前が感じたんなら、それで十分だ」
そう言うと、ナナシはふっと身を翻した。
風が舞い上がり、木々の間を抜けていく。
「どこへ行くんですか?」
「どこでも。風が呼ぶほうへ」
軽い足取りで森の奥へ消えていく。
足音も残さず、まるで最初から存在しなかったかのように。
ただ――風だけが、彼の理を語っていた。
残されたひかりは、しばらくその場に立ち尽くした。
風が木々を撫でる音が、まだ耳に残っている。
「……風の理、か」
腰の木刀〈樹〉にそっと触れる。
樹々のざわめきが、応えるように揺れた。
風が、葉の隙間を抜ける。
まるで彼女の中の何かを確かめるように。
――理は、縛るものではなく、流れるもの。
ひかりは静かに目を閉じた。
木刀の中に、わずかな気の流れを感じ取る。
それはまだ拙い、けれど確かに“理”の声だった。
「……少し、分かった気がする」
小さく呟き、ひかりは山道を歩き出す。
足元の露が陽光を受け、きらりと光った。
その風は、柔らかく背を押す。
まるでナナシが見送っているかのように。
やがて森を抜けた先、空が広がる。
遠く、河南の町並みが霞んで見えた。
旅はまだ始まったばかり。
だが――ひかりの中の理は、確かに動き始めていた。
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