第十五話 火を喰らう狼
街を離れると、風は熱を帯びはじめた。
赤土の地面は乾ききり、踏みしめるたび細かな塵が舞い上がる。
その塵すら、わずかに熱い。
ひかりは歩きながら、思わず息を浅くした。
「……空気が重い」
呟くと、横を歩く沙羅が小さく頷く。
「ここは、火の国の“息の境い目”だから」
「息の境い目?」
「街までは人が息を守ってる。
ここからは、火の理が息をしてる場所」
ナナシが口元で草を噛み、鼻で笑う。
「つまりだ。
“火が支配してる場所”ってこった」
ひかりは、胸の奥にわずかな震えを覚えた。
熱に焼かれる痛みではなく――
火そのものの揺らぎが肌に触れてくる感覚。
「……火が、怖がってる」
気づいた瞬間、口から零れていた。
自分でも驚くほど自然に。
沙羅が足を止めて、ひかりを見つめる。
「わかるんだね」
「うん。
森で、木の理に触れたとき……似てる」
「押しつぶされていた揺らぎだな」
ナナシが短く言う。
「火も同じ目に遭ってる。
誰かが押さえつけてやがる」
空は青いのに、どこか焦げた匂いがした。
山の頂から、赤い靄がゆらゆらと立ち上っている。
焔ノ峰――火の心臓。
そこに触れれば、何が待っているのか、誰も知らない。
ひかりは〈暁葉〉の柄に触れた。
刃の奥で眠る、あの微かな火の脈動を確かめるように。
「……でも、行く」
その声は小さかったが、迷いはなかった。
「ひかり」
沙羅が優しく微笑む。
「ありがとう」
その時だった。
――土を擦る、低い音。
最初は風の音に紛れるほど静かだったが、
徐々に、確かな足音へと変わっていく。
「止まれ」
ナナシが前に腕を伸ばした。
その気配には、冗談も飄々とした調子もなかった。
茂みが、じり、じり、と揺れる。
赤い目が二つ。
いや――四つ。
六つ。
それ以上。
黒い毛を灼いた、焦げの臭い。
口の奥で、赤い火がゆらりと揺れる。
火喰い狼――火山帯や焼け野原に出没する獣の妖。
燃えるような赤毛と灼熱の牙を持ち、炎そのものを糧とする。
群れで狩りを行い、炎を纏って跳びかかる凶暴な存在。
「火が弱ってるから、呼ばれたんだ」
沙羅が低く言う。
「火が“守れない”とき、火に飢えたものが集まる」
「そりゃあ最悪だな」
ナナシが草を噛む顎を止める。
「嬢ちゃん」
「わかってる」
ひかりは、一歩前へ出た。
狼たちが、同時に低く唸る。
その唸りは、音というより炎の息吹に近かった。
ひかりは胸の奥の熱に、そっと触れる。
焚きつけてはいけない。
燃やすんじゃない。
結ぶ。
息を吸い込む。
「――《樹閃》」
刀を振る。
刃から生まれた軌跡は、ただの斬撃ではなかった。
木の蔓が、ひかりの背後――地そのものから立ち上がるように伸びた。
しなやかで、強く、命の通った蔦。
飛びかかった狼の身体に絡みつき、
燃える炎ごと、ぎゅうっと抱きしめるように締める。
「燃えたくないなら……無理に燃えなくていい」
ひかりが呟く。
蔓に絡まれた狼の炎は、暴れず、ただ震えた。
まるで泣いているみたいに。
次の狼が横から跳ぶ。
ひかりは足を踏み込み、もう一度。
「――《樹閃・絡み蔦》!」
蔓は地を走り、根が土を抉る。
炎を抱きしめ、押し包み、鎮める。
炎は、消えるのではなく――
落ち着いていく。
火は、怖がっていたのだ。
「ひかり」
沙羅の声が震えていた。
「火に……触れてるんだね」
「うん。
泣いてるから」
その瞬間、横合いから三匹が一斉に跳ぶ。
狙いは――沙羅。
「来るぞ!」
ナナシが地を蹴った。
肩の力は抜け、動きは風そのもの。
「――《風斬り(かざきり)》」
音はなかった。
ただ、風が通り抜けた。
狼たちの身体が、なにか目に見えない刃に沿って裂けるように――
地に崩れ落ちる。
燃え広がる炎はなく、ただ、静かに灰になった。
「風は形ねぇ。
だから“いつ来るかわからねぇ刃”ってわけだ」
ナナシは軽く息を吐く。
「……やっぱりすごい」
「嬢ちゃんの方が、よほど化け物じみてるがな」
「え?」
「火を泣き止ませる奴なんざ、そうはいねぇ」
ひかりは、胸に手を当てた。
そこにある熱は、もう――震えていない。
静かで、穏やかで、
まるで寄り添ってくれている火だった。
「火は怒ってない。
ただ、苦しかっただけ」
沙羅の声は、風よりも静かだった。
「それを感じてくれて……ありがとう」
ひかりは、小さく頷いた。
「行こう。
火が、まだ息を詰めてるなら……助けたい」
ナナシが空を見上げる。
「焔ノ峰は、すぐそこだ。
だが、ここから先はもう後戻りねぇぞ」
「いいよ」
ひかりはまっすぐ前を見据えた。
山の上には、赤い靄が脈動している。
まるで――
巨大な心臓が、助けを求めているみたいに。
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