第十一話 森哭きの女王―常世の樹―③
夜が明けた。
森の空気は透きとおり、昨日までの濁りが嘘のように消えていた。
露の粒が枝先で震え、葉裏の脈に淡い光が走る。
風が葉を揺らし、鳥たちの声が段をつけて戻ってくる。
焚き火のそばで、ひかりは静かに〈暁葉〉を磨いていた。
刀身に映る自分の顔は、どこか疲れている。
それでも、その目には確かな光が宿っていた。
「……燃やさず、結んだ炎。
“織る”って、こんなに難しいんだね」
火の粉がぱちりと弾ける。
隣ではナナシが横になったまま、片目だけを開けている。
「織る、ねぇ。理を扱う者は大抵“斬る”か“断つ”ことしか考えねぇ。
お前みたいに“結ぼう”なんて発想、珍しいぜ」
「でも、火は燃やすだけのものじゃない。
光も、温もりも、命を照らす力がある。
それを織り合わせたら――少しは優しい理になる気がする」
「ほう、説法じみたこと言いやがる」
ナナシは笑い、枯れ木をひとつ焚き火に投げ入れた。
炎が揺らめき、柔らかく森を照らす。
灰となって崩れた炭の輪郭に、昨夜の戦いの余熱だけが残っていた。
風が一度、止まった。
森がざわめき、木々が一斉に揺れる。
その中心――かつてユグラがいた巨樹の根の裂け目から、柔らかな光が立ちのぼった。
ひかりとナナシは立ち上がり、刀を抜き、息をのむ。
『恐レヌデ良イ……我ハ、モウ呪イニ囚ワレテハオラヌ』
光の中から現れたユグラは、昨日のような禍々(まがまが)しさを失っていた。
肌は淡く透きとおり、瞳は穏やかな翠を宿している。
蔦の髪に朝露が結び、雫が一滴ずつ地へ還っていく。
「ユグラ……あなた、生きてたの?」
『命ハ巡ル。朽チテモ理ニ還リ、再ビ形ヲ得ル……
我ハ、汝ノ焔ニ救ワレタノダ、ヒカリ』
その声は、木霊のように森全体に響いた。
遠くの梢で小さな光の粒――木霊たちが、安堵の色を灯す。
『我ガ暴走シタ理由――数日前、見知ラヌ影ガ森ニ現レタ。
ソノ者ハ理ヲ歪メ、我ノ核ニ触レ、我ノ名ヲ奪ッタ。
名ナキ我ハ輪カラ零レ、森ヲ喰ラッテ形ヲ保ッタ……』
「理を……歪めた? 誰がそんなことを」
『影ノ名ハ知ラヌ。タダ、ソノ手ニハ“闇ノ理”ノ印ガ在ッタ』
ナナシの表情がわずかに険しくなる。
「……闇の理か。五行の外にある禁忌だな」
『他ノ理ニモ歪ミガ生ジテオルカモシレヌ。
汝、ヒカリ――理ヲ織ル者ヨ。此ノ異変ヲ確カメテオクレ』
ユグラの声が柔らかく森に溶けていく。
ひかりは静かに頷いた。胸の奥で、常世の息づかいが脈を打つ。
「……わかった。私、行くよ。理を壊すものがいるなら、止めたい」
『然ラバ――ソノ刀ニ、我ノ理ヲ宿サン』
ユグラが木の手をかざすと、木漏れ日が集まり、ひかりの腰袋の中の枝が光を帯びる。
それは山姥との戦いの後、ひかりが拾い上げていた一本の小枝だった。
枝は脈打ち、〈樹〉の欠片と同じ調べで応える。
『ソノ枝ハ、命ヲ繋グ根。
木ノ理ノ純粋ナ流レ――我ノ加護ト共ニ、汝ノ刀ニ通ズル。
鞘ニ“常世”名ヲ与ヨウ』
枝は淡い翠光を放ち、静かに〈暁葉〉の鞘に吸い込まれていった。
鞘が一瞬だけ呼吸するように脈打ち、森の気がそれに応える。
鞘口からふっと立ちのぼった香は、朝の樹液の甘さだった。
「……常世の鞘……常世鞘。
ありがとう、ユグラ」
『礼ハ要ラヌ。汝ハ我ヲ救イ、我ハ汝ニ理ヲ返ス。
理ハ巡リ、命ハ繋ガル――ソレガ輪ナリ』
ユグラは微笑み、光となって溶けていった。
消える間際、彼女は森の奥――影が去った方角を一度だけ振り返る。
靄が薄れ、そこに細い黒の筋が一瞬だけ走って、跡形もなく消えた。
森の空気があたたかく変わり、再び生命のざわめきが戻ってくる。
小鳥が枝から枝へと渡り、苔の間からは白い小花が顔を出した。
木霊の粒が二、三、ひかりの肩にとまり、すぐに空へ還る。
ナナシが隣で腕を組み、ため息をついた。
「……嬢ちゃん、やっぱただもんじゃねぇな。
理に“選ばれる”奴なんざ、そうそういねぇ」
「選ばれたんじゃない。
――織っただけ。理も、命も」
ひかりはそう言って、〈暁葉〉を見つめた。
常世鞘は脈のように微かに震え、刀身に映る光は嬉しそうに揺らめいている。
鞘に触れると、樹の若い匂いがほんのり指先に移った。
「さて、次はどこへ行く?」
ナナシの問いに、ひかりは東の空を見た。
山の稜線の上、朝の陽が金色の雲を照らしている。
風が一筋、頬を撫で、火照った心を落ち着かせた。
「……火の国。西の山に、赤い気が満ちてる。
遠いけど――呼ばれてる。そんな感じがする」
「ほぉ、勘も悪くねぇな。
火の理がうずく音が、こっちまで聴こえてやがる」
ナナシは足先で灰を蹴り、焚き火を整えると、からりと笑った。
「じゃあ決まりだ。――行くぞ、嬢ちゃん」
ひかりは頷き、常世鞘を腰に確かめる。
樹皮の小紋が鞘口に浮かび、淡い翠が朝の金に溶けた。
足もとで落ち葉が道の形をつくり、枝葉が行く先を指すように揺れている。
森を発とうとしたとき、ひかりは一度だけ振り返った。
ユグラが還った場所に、幼い苗木がひとつ芽を出していた。
名を取り戻した森が、確かに次の季へ進んでいく印。
「……また来るね」
小声の挨拶に、葉がさらりと鳴った。
それは“行ってこい”と背を押す、森の返事だった。
ふたりは歩き出す。
光と風が交わり、影が伸び、短くなり、また伸びる。
道は細いが、迷いはない。
常世の森は歌い、名を取り戻した輪が静かに回り始めていた。
その奥深く、まだ誰も知らない“異変”が、静かに蠢き始めている。
赤い気は、山脈の裏で脈をうち、どこかで笑い、どこかで泣いていた。
風が前髪をすく。
ひかりは目を細め、ナナシは片口で笑う。
森の境を越え、朝の道に一歩を刻む。
足音は軽く、しかし確かだった。
第一章 命ノ樹の詩 完




