第八話:忍び寄る王都の影
祭りの夜が明け、ヴェリディアの町は昨日の喧騒が嘘のような静けさを取り戻していた。後片付けに追われる人々も、どこか満ち足りた表情を浮かべている。
エラーラのアトリエにも、穏やかな朝の光が差し込んでいた。彼女は窓辺に立ち、昨夜の出来事を夢のように思い出していた。『カイ様……』――生まれて初めて呼んだ彼の名前。触れ合った指先の熱。彼の瞳に宿っていた、自分だけに向けられた確かな想い。
頬が自然と熱くなるのを感じ、エラーラは小さく深呼吸をした。心に灯った温かな光と同時に、イザベラが残した捨て台詞が、小さな棘のように胸の奥に引っかかっている。
店を開ける準備をしていると、入り口のベルがカラン、と鳴った。こんな朝早くに誰だろうと顔を上げると、そこに立っていたのは、カイその人だった。
「カイ様……!」
彼は私服姿のままだった。その手には、森で摘んだのであろう、朝露に濡れた小さな野の花が数本握られている。
「……町の巡回だ。異常はないか、確認に来た」
カイはぶっきらぼうにそう言ったが、その視線はエラーラから逸らされていた。彼の不器用な口実が、エラーラには愛おしく感じられる。
「はい、何も。お店も、私も、異常ありません」
エラーラが微笑むと、カイは少しだけ逡巡した後、持っていた野の花をカウンターにそっと置いた。「……店の前に、咲いていた」
それは明らかに嘘だったが、エラーラは何も言わずにその花を受け取ると、アトリエから持ってきた小さなガラス瓶に挿した。何の変哲もない野の花が、店の中をぱっと明るくする。
二人の間に、言葉にならない甘い空気が流れる。カイが何かを言いかけた、その時だった。
店の外から、複数の馬の蹄の音がけたたましく響いてきた。それは、騎士団の馬とは違う、もっと軽やかで、しかし統率の取れた音。次の瞬間、店の扉が乱暴に開け放たれ、王都の紋章が入った鎧を身につけた二人の騎士が踏み込んできた。
「ここに、エラーラ・フォン・ヴィンセントと名乗る女はいるか」
先頭に立つ騎士が、冷たく見下すような視線で言った。その手には、蝋で封印された一通の羊皮紙が握られている。
カイは瞬時にエラーラの前に立ち、盾となるように立ちはだかった。
「何者だ。ここはヴェリディア騎士団の管轄だぞ」
「我らは中央監察騎士団。辺境の騎士団長ごときが口を挟むな」
中央の騎士はカイを一瞥すると、再びエラーラに視線を戻した。「エラーラ・フォン・ヴィンセント。お前には、王国の民を惑わし、禁忌の錬金術を用いた嫌疑がかけられている。大人しく、王都まで同行願おうか」
「なっ……!?」
エラーラは息を飲んだ。禁忌の錬金術など、身に覚えが全くない。これは明らかに、イザベラによる報復であり、権力を使った罠だった。
「待て。彼女は何もしていない。これは何かの間違いだ」
カイが低い声で反論するが、中央の騎士は鼻で笑った。
「間違いかどうかは、王都の審問会が決めることだ。抵抗すれば、公務執行妨害とみなし、実力で連行するまで」
騎士たちが、腰の剣に手をかける。店の外には、さらに数名の騎士が待機しているのが見えた。抵抗は、無意味だった。
エラーラの体から、血の気が引いていく。ようやく見つけた安住の地。ようやく通じ合った心。そのすべてが、王都から伸びてきた理不尽な力によって、いとも簡単に壊されようとしていた。
絶望に打ちひしがれるエラーラの肩を、カイの大きな手がそっと抱いた。振り返ると、彼の灰色の瞳が、静かだが燃えるような怒りの炎を宿して、まっすぐに彼女を見つめていた。
「案ずるな、エラーラ」
彼は、彼女にだけ聞こえる声で囁いた。
「お前は、俺が必ず守る」
その言葉は、暗闇に差し込んだ一筋の光だった。王都の影が、二人の穏やかな朝を無慈悲に引き裂く。静かな辺境の町で始まった香りの物語は、今、巨大な権力との否応ない戦いの幕を開けようとしていた。




