第四話:護衛と森のささやき
あの雨の日以来、カイ・ランヴェルドがエラーラの店を訪れるのは、ほとんど日課のようになっていた。
彼は決まって夕暮れ時、一日の訓練を終えた後にやってくる。何かを買うわけでもなく、ただ店の前に立ち、中にいるエラーラの気配を確かめると、無言で立ち去ることも少なくない。町の人々は、厳格な騎士団長が没落貴族の店を気にかけていることを、不思議そうに噂していた。
エラーラもまた、彼の静かな訪問を心待ちにするようになっていた。彼が店を訪れると、張り詰めていた一日の疲れがふっと和らぐ気がした。
ある日のこと、エラーラは調合台の上で、一枚の古い植物図鑑を広げながらため息をついていた。
「やっぱり、これだけは町の近くでは見つからないわね……」
彼女が探しているのは、「陽光の雫」と呼ばれる、崖っぷちの岩陰にのみ自生する小さな苔の一種だった。心を高揚させ、活力を与える香油を作るのに欠かせない材料だが、採集するには森の奥深く、魔物が出没する危険な区域に足を踏み入れなければならない。
ちょうどその時、店の扉のベルが鳴り、カイが入ってきた。
「……何か悩み事か」
カウンターに広げられた植物図鑑と、エラーラの曇った表情を見て、カイが尋ねる。その声には、以前のような刺々しさはもうない。
「騎士団長様。ええ、少し……。『陽光の雫』という苔を探しているのですが、どうにも見つからなくて」
「陽光の雫……。それは西の崖、ワイバーンの巣の近くに生えているものだ。素人が近づける場所ではない」
カイの灰色の瞳が、わずかに険しさを増す。
「分かっています。だから、諦めて別の調合を考えようかと……」
エラーラが力なく微笑んだ、その時だった。
「……明日、俺が護衛する」
「えっ?」
予期せぬ言葉に、エラーラは顔を上げた。カイは少し気まずそうに、しかし断固とした口調で続けた。
「あの雨の日の……礼だ。それに、お前の作るものには価値がある。材料がないという理由で滞るのは、ヴェリディアの町にとっても損失だ」
早口で並べられる理由は、いかにも彼らしい不器用なものだったが、その裏にある純粋な気遣いに、エラーラの胸は温かくなった。
翌朝、二人は森の奥深くへと向かっていた。カイは背中に大剣を背負い、周囲への警戒を一切解かない。エラーラは彼の少し後ろを歩きながら、その頼もしい背中を見つめていた。
「私の家のこと……ご存じですよね」道中、エラーラがぽつりと呟いた。「父が、政争に巻き込まれて爵位を剥奪されたこと」
「ああ」
「父は、王都のやり方に馴染めない人でした。私も……同じです。だから、ここでの暮らしが気に入っています。香りの知識だけが、私に残されたものでしたから」
彼女は、自分の持つ知識がどこかこの世界の常識とは違うこと、それを「前世」という言葉でしか説明できないことを、少しだけ話した。
カイは黙って聞いていた。そして、しばらく歩いた後、静かに口を開いた。
「俺は、戦場で拾われた孤児だ。先代の団長に拾われなければ、今頃生きてはいなかっただろう。だから、このヴェリディアを守ることが、俺のすべてだ」
初めて聞く彼の過去。二人の間に、それまでとは違う、もっと深い相互理解の空気が流れ始めていた。
目的の崖にたどり着いた時、エラーラは息をのんだ。目当ての苔は、切り立った崖の中腹、わずかな岩のくぼみに金色の輝きを放っている。
「あんなところに……」
「待っていろ」
カイはそう言うと、ほとんど躊躇なく崖を登り始めた。鍛え上げられた体躯が、軽々と岩を掴み、苔の生えている場所へとたどり着く。
彼が慎重に苔を剥がし、革袋に詰めて戻ってきた時だった。足を滑らせたエラーラの体が、ぐらりと傾く。
「危ない!」
カイの力強い腕が、とっさに彼女の体を支えた。抱きとめられたエラーラの目の前には、カイの胸元が迫っていた。彼の体から、汗と、そしてエラーラ自身が調合した、心を落ち着ける香油の微かな匂いがした。
「す、すみません……」
「……いや」
カイはすぐに彼女を離したが、その耳がわずかに赤く染まっているのを、エラーラは見逃さなかった。
帰り道、二人の間には気まずくも、どこか心地よい沈黙が流れていた。夕暮れの光が森を金色に染める中、店にたどり着く。
「ありがとうございました。これで、新しい香りが作れます」
エラーラが深く頭を下げると、カイは短く「ああ」とだけ答え、何も言わずに背を向けた。しかし、去り際に振り返ったその眼差しには、護衛としての義務だけではない、温かい何かが宿っているのを、エラーラは確かに感じ取っていた。