第三話:雨音と苦い記憶
ヴェリディアの町に、数日間にわたって冷たい雨が降り続いていた。灰色の空から絶え間なく降り注ぐ雨は、森の緑を濃くし、土の匂いを町中に立ち昇らせる。
エラーラの店『森の雫』には、客足もまばらだった。彼女はこの静かな時間を使って、アトリエで新しい香油の試作に没頭していた。先日森で集めたルナリアの蜜をベースに、雨に濡れた若葉のような、清らかで少しだけ物悲しい香りを生み出せないかと試行錯誤を繰り返す。
その時、店の扉が勢いよく開かれ、ベルが激しい音を立てた。
「エラーラ殿! 大変だ!」
息を切らして駆け込んできたのは、カイの部下である若い騎士、リオだった。その表情は青ざめ、普段の快活さは見る影もない。
「リオ様、どうかなさいましたか? ひどい雨に濡れて……」
「隊長が……! カイ隊長が、今朝から訓練に出てこられないんだ!」
リオの言葉に、エラーラは目を見開いた。あの厳格で、自己管理の塊のようなカイが訓練を休むなど、誰もが想像だにしないことだった。
「隊長の部屋に行ったんだが、鍵がかかっていて返事がない。ただ、中から……苦しそうなうめき声が聞こえる。古傷が、きっとこの雨で……!」
騎士団の規則で、隊長の私室に無断で立ち入ることは固く禁じられている。だが、このままではいけない。リオの焦燥が、エラーラにも痛いほど伝わってきた。
「……案内してください。私に、できることがあるかもしれません」
エラーラは迷わず言った。彼女は手早くいくつかの小瓶と薬草を革の鞄に詰めると、リオと共に雨の中を走り出した。
騎士団の兵舎の一角、一番奥にあるカイの部屋の前に着くと、確かにドアの隙間から、押し殺したような呻き声が聞こえてきた。それは、屈強な騎士団長からは想像もつかない、弱々しく、痛みに満ちた声だった。
「カイ隊長、私です、エラーラです! ドアを開けてください!」
エラーラが呼びかけるが、中からの反応は鈍い。
「隊長! 緊急事態です、失礼します!」
リオが意を決して叫び、体当たりで鍵を破壊する。乱暴に開かれた扉の先、薄暗い部屋のベッドの上で、カイは身を丸めて震えていた。額には脂汗が浮かび、その表情は苦痛に歪んでいる。枕元に置かれた例のキャンドルは、燃え尽きて久しいようだった。
「隊長……!」
「来るな……」
カイはかろうじて声を絞り出す。他人に、特にエラーラにこの無様な姿を見られたくないという最後のプライドが、彼をそう言わせた。
しかし、エラーラは怯まなかった。彼女は静かにベッドのそばに膝をつくと、鞄から小さな瓶を取り出した。
「これは、痛みを和らげるための香油です。お辛いでしょうが、少しだけ失礼します」
彼女はカイの許可を待たず、その服の襟元を少しだけ緩めると、香油を染み込ませた指で、彼の首筋やこめかみに優しく塗り込んでいく。ウィンターグリーンとジンジャー、そして微かな鎮静作用のある魔法植物をブレンドした、温かみのあるスッとした香りが部屋に広がった。
最初は抵抗しようとしたカイも、香りと共に伝わるエラーラの指先の温かさに、次第に体の力が抜けていくのを感じた。
「なぜ……」カイが掠れた声で問う。
「あなたは、私の最初のお客様ですから」
エラーラは静かに微笑んだ。「それに、雨の日は誰だって、少しだけ心が弱くなるものです」
その優しい声と穏やかな香りに包まれるうち、カイの荒い呼吸は次第に落ち着きを取り戻し、彼の意識はゆっくりと深い闇の中へと沈んでいった。
嵐のような一夜が明け、カイが目を覚ました時、部屋には静かな朝の光が差し込んでいた。背中の痛みは完全に消えたわけではないが、昨日までの激痛は嘘のように和らいでいる。
ベッドの脇の椅子には、彼が眠っている間にエラーラが置いていったのであろう、新しいキャンドルと、火傷の痕に塗るための軟膏が添えられていた。
カイはそれにそっと手を伸ばす。昨夜の出来事は夢ではなかった。鉄の鎧で固めたはずの自分の最も弱い部分を、あの女は静かに、そして優しく癒やしていったのだ。
それはカイにとって、初めての経験だった。そして、この出来事が二人の関係を決定的に変えることになるのを、彼はまだ知らなかった。