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第二話:騎士の眠りと微かな変化

 カイ・ランヴェルドは自室の硬いベッドに腰を下ろし、手の中にある小さなサシェを無言で見つめていた。ラベンダーとカモミールを主に調合されたそれは、リネン生地の上からでも、心を落ち着かせるような穏やかな香りを放っている。


(くだらん、気休めに過ぎん)


 彼は自嘲気味に呟き、それを机の隅に放ろうとした。だが、指が離れる寸前、あの女――エラーラの、真っ直ぐな灰色の瞳が脳裏をよぎる。貴族の令嬢とは思えぬ、静かで、それでいて芯の強さを感じさせる瞳だった。


「……少しだけ夜が優しくなる、か」


 ここ数年、カイにとって夜は安らぎの時間ではなかった。かつて大戦で負った背中の古傷が、冷える夜になると疼き、悪夢を連れてくる。騎士団長の威厳を保つため、人前で弱みを見せることは決してなかったが、一人きりの部屋で痛みに耐える夜は、彼の精神を確実に蝕んでいた。


 藁にもすがる、という言葉が頭をよぎり、カイは小さくため息をつくと、結局そのサシェを枕元に置いた。


 その夜、カイは久しぶりに、悪夢を見ずに朝を迎えた。古傷の痛みが完全に消えたわけではない。だが、枕元から漂う穏やかな香りが、ささくれ立っていた神経を薄いヴェールで包むように和らげ、途切れ途切れではあったが、確かに眠りを与えてくれたのだ。


 翌日、日中の厳しい訓練を終えたカイの足は、自然と町の中心から外れた森の麓へと向かっていた。


 その頃、エラーラは森の奥深くで、慎重に植物の蜜を集めていた。月光を浴びて咲くことから「ルナリア」と呼ばれる希少な花の蜜は、精神を安定させる効果が高い。これを新しい香油のベースにしようと考えていた。


 彼女が店に戻ると、入り口の前に見慣れた巨躯が立っているのが見えた。カイ・ランヴェルドその人だった。


「騎士団長様。何か御用でしょうか」


 エラーラが声をかけると、カイは少し気まずそうに視線を逸らした。その手には、昨日渡したサシェが握られている。


「……昨日の、あれ。まだあるか」

「あれ、と申しますと?」

「……キャンドルだ」


 ぶっきらぼうな物言いだが、初日に感じた刺々しい敵意は薄れていた。エラーラは彼の変化を悟り、静かに微笑んだ。


「ええ、ございます。どうぞ、中へ」


 店に入ったカイは、まっすぐにキャンドルが並べられた棚へ向かうと、昨日エラーラが勧めたものを一つ手に取った。


「これを貰う。いくらだ」

「銀貨3枚になります」


 カイが懐から銀貨を取り出す。その指先が、昨日よりも少しだけ滑らかに見えるのは、気のせいだろうか。


 商品を包みながら、エラーラはふと口を開いた。


「そのサシェには、バレリアンという薬草も少しだけ混ぜてあるのです。強い鎮静作用があるので、騎士団長様のお力になれるかと」

「……詳しいのだな」

「前世で、少しだけ学んでおりましたので」


 さらりと言われた言葉に、カイは動きを止める。「前世……?」


 「ええ」エラーラは悪戯っぽく笑う。「信じられませんか? まあ、無理もありませんね」


 彼女はそう言って、包んだキャンドルをカイに手渡した。その瞬間、二人の指先が微かに触れ合う。エラーラの指先は、薬草と土の匂いがした。それは、カイが戦場で嗅いできた血と鉄の匂いとは全く違う、命の匂いだった。


 カイは何も言わず、キャンドルを受け取ると、銀貨をカウンターに置いて足早に店を出た。


 扉のベルが、カラン、と鳴る。


 その背中を見送りながら、エラーラは自分の胸が少しだけ温かくなっているのを感じていた。辺境の町での静かな暮らしに、予期せぬ小さな変化が訪れようとしていた。


 そしてカイもまた、兵舎に戻る道すがら、手にしたキャンドルの包みから漂う優しい香りに、強張っていた眉間の力が、ほんの少しだけ抜けていることには気づいていなかった。

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