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第十八話:森の雫に捧ぐ愛

 王都からヴェリディアへの帰路は、来た時とは全く違う、穏やかで光に満ちたものだった。二人で並んで馬を歩ませ、時には他愛もない言葉を交わし、時にはただ黙って、吹き抜ける風の心地よさを分かち合う。それだけの時間が、カイにとっても、エラーラにとっても、何よりの癒やしとなった。


 数日後、ヴェリディアの町の入り口が見えてきた時、二人は馬を止めた。見慣れた森の緑、のどかな家々の煙突から立ち上る煙。その全てが、二人の帰りを祝福しているかのようだった。


 すると、町の門から、一人の少年が駆けだしてくるのが見えた。


「隊長ー! エラーラさーん!」


 リオだった。彼の叫び声を聞きつけて、町の人々が次々と家から顔を出す。そして、二人の姿を認めると、わっと歓声が上がった。


「おかえりなさい、エラーラさん!」

「騎士団長様、ご無事で何よりです!」


 鍛冶屋の親父も、パン屋の女将も、いつかの老婆も、皆が笑顔で二人を迎えてくれた。王都での孤独な戦いの後、この温かい歓迎は、何よりも心に染みた。ああ、私たちは、この場所に帰ってきたのだ。二人は顔を見合わせ、自然と笑みがこぼれた。


 『森の雫』は、二人が留守にしている間、リオや町の人々が毎日掃除をしてくれていたようで、少しも寂れた様子はなかった。カウンターに置かれたガラス瓶には、カイが最後に残していった野の花が、新しい水に活けられてまだ咲き誇っている。


 エラーラは店の扉を開け、深呼吸をした。アトリエから漂う、懐かしいハーブと香油の匂い。ここが、私のいるべき場所。


 その日の夕暮れ、店じまいを終えたエラーラの隣には、甲冑を脱ぎ、今はもうすっかり見慣れた私服姿のカイがいた。彼は、不器用な手つきで、エラーラが調合した後の道具を片付けるのを手伝っている。


 「カイ様」エラーラが、彼の背中にそっと声をかけた。「これからは、ずっとこうしていられるのですね」


 「ああ」カイは振り返ると、彼女の手を優しく取った。「もう、お前を一人にはしない」


 彼の言葉は、もはや誓いではなく、当たり前の日常を語る響きを持っていた。


 エラーラは、アトリエの棚から、一つの小さな香水瓶を取り出した。それは、王都での出来事が落ち着いてから、彼女がカイのためだけに作った、全く新しい香りだった。


「これは……?」


 「あなたへの、香りです」エラーラははにかみながら、その香水をカイの手首に一吹きした。


 香りは、ヴェリディアの森の、夜明けの空気そのものだった。雨上がりの土の匂い、力強い木々の気配、そして、全ての始まりを告げる太陽の光のような、温かく清らかな柑橘系の香り。それは、カイが彼女に与えてくれた安心感と、彼自身の持つ、不器用で深い優しさを表現した香りだった。


 「……いい香りだ」カイは、自分の手首の香りを嗅ぐと、その手でエラーラの頬をそっと包み込んだ。「お前の香りがする」


 そして、彼はゆっくりと顔を寄せ、エラーラの唇に、自分の唇を重ねた。それは、祭りの夜の、ためらいがちな触れ合いとは違う。お互いの全てを受け入れ、未来を共に生きていくことを決めた、深く、穏やかで、そしてどこまでも優しい口づけだった。


 窓の外では、ヴェリディアの森が夕日に染まり、きらきらと輝いている。


 没落貴族の娘と、心を閉ざした騎士が出会い、香りが結んだささやかな恋の物語は、こうして本当の始まりを迎えた。鉄の鎧を脱ぎ捨て、ただ一人の女性を愛する男と、過去を乗り越え、自分の力で幸せを掴んだ調香師。


 二人が『森の雫』で紡いでいくこれからの日々と、そこに満ちる新しい香りの物語を、この世界の誰もが、まだ知らない。

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