第十六話:裁きの庭の逆転劇
運命の日、審問会の開かれる大広間は、荘厳かつ冷酷な空気に満ちていた。正面の最も高い席に『黒衣の判事』ロデリックが座し、その脇には告発者であるギデオンとイザベラが、勝利を確信した笑みを浮かべている。
やがて、重い扉が開き、エラーラが二人の衛兵に挟まれて入廷した。数日間の監獄生活でやつれてはいたが、その背筋は驚くほどまっすぐに伸びている。彼女はゆっくりと被告席に進み、ロデリック卿を、そしてイザベラを、静かに見据えた。
「被告エラーラ・フォン・ヴィンセント。汝には、禁忌の錬金術を用いて人心を惑わし、王国を揺るがす魔女として、その罪を問う」
ロデリックの威圧的な声が響き渡る。次々と、ギデオンが用意した偽りの証拠が提示されていく。ヴィンセント家の家宅捜索で「発見された」という黒薔薇の毒の調合メモ(もちろん捏造だ)。エラーラの香水で「心を惑わされた」と証言する、金で買われた証人。状況は、圧倒的に不利だった。
「さて、被告。何か申し開きはあるかな?」
ロデリックが、形式的に尋ねる。誰もが、彼女が泣き崩れるか、意味のない否定を繰り返すだけだと思っていた。しかし、エラーラは落ち着き払っていた。
「はい、ございます。ですが、私の申し開きは、言葉ではございません」
彼女はそう言うと、懐から例の布切れを取り出した。「ここに、禁忌とされる『黒薔薇の毒』、そして、その対となる『陽光の雫』の真実がございます」
「戯言を」ロデリックが鼻で笑う。
だが、エラーラは構わず続けた。彼女の声は、静かだが、不思議な説得力を持って広間に響き渡る。
「『黒薔薇の毒』。その香りは、熟れすぎた果実のように甘く、しかしその奥に、湿った土のような腐敗の気配を隠しています。少量ずつ摂取することで、人の精神をゆっくりと蝕み、悪夢を見せ、猜疑心を煽り、やがては生きる気力そのものを奪い去る……。それは、まるで長く続く、治らない病のように」
その生々しい描写に、聴衆がざわめき始める。それは、公に伏せられている王太子妃の「病」の症状と、不気味なほど一致していたからだ。
「ですが!」エラーラは声を張った。「この毒には、唯一の解毒薬が存在します。それが、私の父が命を懸けて研究していた、『陽光の雫』。その香りは、夜明けの森の空気のように清らかで、全ての不浄を洗い流す、生命力そのものの香りです」
「父は、毒を作っていたのではありません。毒を打ち破る、光を作ろうとしていたのです! その研究を疎ましく思う何者かが、父を陥れ、そして今、私をも同じ罪で断罪しようとしています!」
エラーラの魂の叫びに、ロデリックもギデオンも一瞬言葉を失う。その時だった。
「――その通りです」
凛とした声が、広間の後方から響いた。全ての視線がそちらに集まる。そこに立っていたのは、病のため、長らく姿を見せなかったはずの、王太子妃その人だった。その顔色はまだ青白いが、その瞳は強い意志の光を宿している。
そして、その妃殿下の隣には、フード付きのマントを脱ぎ捨てた、カイの姿があった。
「なっ……!?」イザベラとギデオンの顔から血の気が引く。
「ヴィンセント子爵は、私の忠実な臣下でした」王太子妃は、ゆっくりと歩みを進めながら言った。「私が、密かに進む毒殺の危機に気づき、彼に解毒薬の研究を依頼したのです。そして、これがその証拠」
カイが前に進み出て、ヴィンセント子爵の日記をロデリックの前に差し出した。
「馬鹿な……なぜ、妃殿下がここに……なぜ、あの日記が……」
ギデオンはうろたえ、イザベラは震える指でカイを指差した。「衛兵! 何をしています! あの男を捕らえなさい!」
しかし、衛兵たちは動かない。彼らは、王太子妃の登場により、どちらが真の権力者であるかを悟っていた。
「捕らえるべきは、あなたたちのほうです」
王太子妃が静かに告げる。彼女の合図で、広間の扉が開き、グレイに率いられた王宮騎士たちがなだれ込んできた。
「そんな……嘘よ……」
イザベラはその場にへたり込み、ギデオンは最後の抵抗を試みようと剣に手をかけたが、カイの抜き放った剣閃が、それを許さなかった。
裁きの庭の形勢は、一瞬にして逆転した。
混乱の極みにある広間の対極で、エラーラとカイの視線が、初めて固く結ばれる。言葉はいらない。ただ、互いの無事と、共に戦い抜いたことへの感謝、そしてあふれんばかりの想いが、その視線だけで通い合っていた。
王都を覆っていた黒い霧が、今、晴れようとしていた。