第十四話:盤上の駒と動き出す狼たち
王都の華やかな貴族街に佇む、一際壮麗な屋敷。その一室で、三人の男女がチェス盤を挟むようにして向かい合っていた。一人は、イザベラ嬢。もう一人は、中央監察騎士団のギデオン。そして最後の一人は、黒い法衣に身を包んだ『黒衣の判事』、ロデリック卿その人だった。
「審問会は三日後。準備は万全ですかな、ロデリック卿」
ギデオンが、駒を進めながら尋ねる。その指先は、獲物をいたぶる猫のようにしなやかだった。
「準備など不要。証拠も証人も、こちらで全て揃えております故」ロデリックは表情一つ変えずに答えた。「あの娘……エラーラとか言いましたかな。彼女が『黒薔薇』の知識を持つ魔女であることは、疑いようのない事実にございます」
「まあ、素晴らしい!」イザベラは扇で口元を隠し、甲高い笑い声を上げた。「あの辺境の生意気な女が、裁きの庭で絶望する顔が目に浮かぶようですわ。そして、彼女が持っているはずの『陽光の雫』の地図も、これで我らのものになりますわね」
「いかにも」ギデオンは頷いた。「王太子妃殿下の御力を削ぐには、あれが必要不可欠。ヴィンセントの娘には、父親と同じように、我らの盤上の駒として、美しく散ってもらわねばなりませんな」
彼らは、エラーラやカイの存在を、巨大なチェス盤の上の、取るに足らないポーン(歩兵)としか見ていなかった。自分たちの勝利を、誰一人として疑っていなかった。
その頃、銀狼グレイの隠れ家では、全く別の盤上が広げられていた。王都の巨大な地図を前に、カイとグレイが向かい合っている。
「やはり、奴らの狙いは二つだ」グレイは、地図上の一点、王城を指差した。「一つは、エラーラ嬢を断罪することで、ヴィンセント家の残した研究成果、すなわち『陽光の雫』の地図を手に入れること。もう一つは、王太子妃の暗殺未遂という過去の罪を再び蒸し返し、妃殿下の権威を失墜させることだ」
「審問会まで、あと三日…。時間がない」カイの表情は険しかった。
「ああ。だから、二手同時に打つ」グレイの唯一の目が、鋭く光る。「まず一手。俺の古いネズミたちを使って、王太子妃殿下に接触する。妃殿下ご自身に、この茶番の裏にある真実をお伝えし、動いていただく」
「だが、妃殿下は今、病を理由に公の場に出ておられないと聞く。謁見は難しいのでは」
「病、ね。それこそが、奴らが仕掛けた『黒薔薇』の毒の効果かもしれん。だとしても、道はある。お前は、もう二手目を考えろ。審問会そのものを、引っ掻き回すための、派手な一手だ」
グレイはカイを見据えた。「お前は、もはやヴェリディアの騎士団長ではない。法も秩序も、お前を守ってはくれん。それでもやるか?」
「覚悟の上だ」カイは即答した。「エラーラを取り戻せるなら、俺は狼にも、悪魔にもなろう」
その答えに、グレイは満足そうに頷いた。二匹の狼が、巨大な敵を打ち破るための、危険な策謀を練り始める。法と秩序の外側で、本当の戦いが始まろうとしていた。
監獄塔の独房。エラーラは、看守が差し入れてくれた木炭を使い、清潔な布の上に何かを書きつけていた。それは、文字ではなかった。香りの構成図。彼女の記憶の中だけにある、父の研究日誌の再現だった。
(お父様、私に力を貸して……)
彼女は目を閉じ、嗅覚の記憶をたどる。『黒薔薇』――人の心を蝕む、甘く、腐敗したような香り。その核となるのは、希少な魔界の植物。だが、その効果を中和し、解毒する鍵となるのが、もう一つの香り。
『陽光の雫』。
光を浴びて輝く苔の、清らかで、生命力に満ちた香り。
エラーラは、この二つの香りの構成を、脳内で何度も分解し、再構築していた。言葉で反論しても、黒衣の判事には通じないだろう。ならば、彼女は彼女だけの武器で戦う。
審問の場で、この禁忌の香りの真実を、その危険性と、そして唯一の希望を、彼女自身の口で、香り立つように語るのだ。
彼女は布の切れ端に、最後の構成図を書き終えると、それを固く握りしめた。鉄格子の向こうで、盤上の駒は、自らが指し手となるべく、静かにその時を待っていた。