第十二話:鉄格子の向こうの攻防
監獄塔での日々は、精神を削る戦いだった。日に一度だけ運ばれてくる、味のしないパンとぬるい水。変わらないのは、独房の冷たい空気と、時折響き渡る他の囚人のうめき声だけ。
しかし、エラーラは屈しなかった。彼女は嗅覚を研ぎ澄ませ、この監獄の情報を集め続けた。看守たちの交代時間、彼らが微かに纏う酒やタバコの匂いの違いから、その日の機嫌や人間関係まで推測する。
そして、彼女の唯一の武器である「香り」を、この何もない石牢で作り出そうと試みていた。パンくずを少しずつ集め、水に浸して発酵させる。それは微かな酸っぱい匂いを発したが、狙いはそこではない。その過程で生まれる、ごく微量の酵母。それを、自分のドレスの袖口に染み込ませていたラベンダーの香りと混ぜ合わせるのだ。
数日が経った頃、一人の看守が、いつものように食事を房の前に置いた。エラーラは、鉄格子の隙間から彼に話しかけた。
「看守様。毎日本当にご苦労様です」
「……なんだ」
看守は訝しげに彼女を見た。
「もしよろしければ、これを。ほんの気持ちばかりですが」
エラーラは、ドレスの袖をちぎった小さな布切れを差し出した。それは、彼女が作り出した、微かで、しかし確かに心を落ち着かせる香りを放っていた。ラベンダーの安らぎと、酵母がもたらす生命の温もりが混じり合った、不思議な香りだった。
「こんなもの……」
「奥様が、夜、よく眠れるようにお祈りしています。先日、あなたが微かに纏っていたゆりかご草の匂い……きっと、赤ちゃんの夜泣きでお困りなのでしょう?」
看守は息を飲んだ。彼の妻は、生まれたばかりの子供の世話で、ここ数週間まともに眠れていなかったのだ。
「な、なぜそれを……」
「香りが、教えてくれました」
エラーラは静かに微笑んだ。看守はしばらく躊躇していたが、結局その布切れを受け取ると、何も言わずに立ち去った。
これが、エラーラのささやかな攻防の始まりだった。鉄格子の向こう側から、人の心を読み、癒やし、味方につけていく。それは、剣や魔法よりも静かで、しかし確実な力だった。
一方、王都の裏通りで夜を過ごしたカイは、夜明けと共に新たな行動を開始していた。隻眼の梟から得た情報を元に、彼はまず、ヴィンセント子爵家の屋敷跡地へと向かった。
そこは、王都の貴族街の一角にありながら、今は見る影もなく荒れ果てていた。門は壊れ、庭には雑草が生い茂っている。数年前に起きたとされる「王太子妃暗殺未遂事件」の余波が、生々しく残っていた。
カイは周囲を警戒しながら、屋敷の内部に潜入した。打ち捨てられた家具、破られたタペストリー。その中で、彼は一つの違和感に気づく。書斎と思われる部屋の本棚が、一つだけ不自然に動かされた形跡があるのだ。
力を込めて本棚を動かすと、その裏には隠された小さな金庫が現れた。鍵はかかっていない。恐らく、事件の際に中央騎士団が中身を持ち去り、そのままにしていったのだろう。
金庫の中は空だった。だが、カイは諦めない。彼は指先で、金庫の底板を慎重になぞる。そして、わずかな引っ掛かりを見つけると、ナイフの先でそれをこじ開けた。二重底になっていたのだ。
そこに隠されていたのは、一冊の小さな日記帳と、古びた一通の手紙だった。
カイはまず日記帳を開いた。それは、エラーラの父、ヴィンセント子爵が書いたものだった。そこには、政争の醜さや貴族社会への幻滅と共に、王太子妃から賜ったという貴重な香料の研究記録が記されていた。そして、最後の日付のページには、こう書かれていた。
『王太子妃殿下より、"黒薔薇の毒"の調査を依頼された。この香りは、人の心を狂わせる禁忌の代物だ。だが、この研究を快く思わない者がいるらしい。もし私の身に何かあれば、この日記を、信頼できる我が友、"銀狼"に託してほしい』
銀狼。その名前に、カイは眉をひそめた。それは、かつて戦場で共に戦い、今は引退して王都のどこかで隠遁生活を送っているはずの、伝説的な元騎士のコードネームだった。
そして、もう一通の手紙。それは、王太子妃本人からのものと思われる、美しい筆跡で書かれていた。
『親愛なるヴィンセントへ。あなたの忠義に感謝します。しかし、敵の動きが思ったよりも早いようです。どうか、"陽光の雫"の隠し場所の地図を、誰にも渡さないで……』
陽光の雫。エラーラが探していた、あの苔の名前がそこにあった。全ての点が、線で繋がり始める。エラーラの父親は、何者かの陰謀に気づき、殺されたのだ。そしてその陰謀の鍵は、「黒薔薇の毒」と「陽光の雫」が握っている。
カイは日記と手紙を懐にしまい込むと、静かに屋敷を後にした。次に会うべき相手は決まった。
王都の片隅で隠遁生活を送る、伝説の"銀狼"。彼を味方につけることが、この巨大な陰謀を打ち破り、エラーラを救い出すための、唯一の道だった。