第十一話:王都の石牢と裏通りの狼
エラーラを乗せた馬車がたどり着いたのは、王城の地下深くに広がる、監獄塔と呼ばれる場所だった。太陽の光が一切届かない、冷たい石と鉄格子だけで作られた世界。空気は湿っぽく、長年染み付いた絶望と、微かなカビの匂いがした。
「ここがお前の新しい住処だ。審問の日まで、大人しくしているんだな」
護送してきた騎士は、まるで汚物でも扱うかのようにエラーラを独房に突き飛ばした。重い鉄の扉が閉まる音が、彼女の最後の希望を打ち砕くかのように響き渡る。
独房の中には、硬い石のベッドと、粗末な水差しがあるだけ。ヴェリディアの森の香りも、カイがくれた野の花の温もりも、ここにはない。一瞬、心細さに涙が溢れそうになる。だが、彼女は首を振った。
(今は、泣いている場合じゃない)
エラーラは目を閉じ、意識を集中させる。この石牢の匂いを分析するのだ。カビ、湿った石、鉄錆……そして、その奥に微かに香る、古い羊皮紙と、高価なインクの匂い。この監獄塔は、重要な記録を保管する書庫にも隣接しているのかもしれない。どんな些細な情報でも、武器になる可能性がある。
彼女はカイの言葉を思い出す。『信じて、待て』。信じている。だから、ただ待つだけの無力な存在でいるつもりはなかった。彼女は彼女のやり方で、この逆境と戦うのだ。
その頃、カイは王都の巨大な影の中に身を潜めていた。フードで顔を隠し、ヴェリディアの騎士団長という身分を捨てた彼は、裏通りに渦巻く情報の海に飛び込んでいく。
王都は、ヴェリディアとは全く違う論理で動く場所だった。表通りでは騎士たちが正義を語り、裏通りでは金と力が全てを支配する。カイが必要としているのは、後者の情報だ。中央監察騎士団が連行した「禁忌の錬金術師」が、今どこに囚われているのか。
彼は酒場から酒場へと渡り歩き、耳を澄ませた。だが、有力貴族が絡む事件の情報は、そう簡単には表に出てこない。誰もが口を閉ざし、厄介事に関わるのを避けていた。
日が暮れ始めた頃、カイは「隻眼の梟」と呼ばれる情報屋が根城にしている、場末の酒場にたどり着いた。薄暗い店内に入ると、紫煙と安酒の匂いが鼻をつく。
カウンターの隅で、片目に眼帯をした老人が一人、静かに酒を飲んでいた。カイは黙ってその隣に座り、金貨を一枚、カウンターに置いた。
「……客にしちゃ、殺気立ちすぎてるな。あんた、ただの旅人じゃねえだろ」
隻眼の梟は、カイの方を見ずに言った。
「中央監察騎士団に連れていかれた女を探している」カイは低い声で、単刀直入に切り出した。
「ほう、また厄介な話だ。その女は、あんたにとってどんな値打ちがある?」
「命を懸けるに値する」
カイの言葉に、隻眼の梟は初めて彼の方を向いた。その唯一の目が、カイのフードの奥を鋭く覗き込む。
「面白い。その目、気に入った」
隻眼の梟はにやりと笑うと、カウンターに置かれた金貨を懐にしまい込んだ。「監獄塔だ。王城の地下にある、一番厄介な場所さ。もっとも、場所がわかったところで、蟻一匹入り込む隙はねえがな」
「……礼を言う」
カイは立ち上がろうとした。
「待ちな」隻眼の梟が呼び止める。「その女を連れていったのは、監察騎士団のギデオンという男だ。イザベラ嬢の息がかかった、冷酷だが腕は立つ。そして、審問官は『黒衣の判事』の異名を持つ、ロデリック卿。有罪と決めた人間を、無罪にしたことは一度もねえ」
それは、絶望的な情報だった。だが、カイの瞳の光は揺るがない。敵が誰であろうと、やることは変わらない。
「もう一つ、おまけだ」隻眼の梟は、楽しそうに続けた。「ヴィンセント子爵家が没落した原因……それは、王太子妃殿下の暗殺未遂事件に関与したという嫌疑だ。もちろん、これも濡れ衣だろうがな。どうやら、あんたが首を突っ込もうとしてる泥沼は、思ったより深そうだぜ」
カイは何も言わず、追加の金貨を数枚カウンターに置くと、酒場を後にした。
夜の闇に紛れ、彼は王城の巨大なシルエットを見上げる。監獄塔、ギデオン、ロデリック卿、そして王太子妃暗殺未遂事件。張り巡らされた陰謀の糸が、少しずつ見えてきた。
道は険しく、敵は強大だ。だが、彼の覚悟は揺るがない。石牢の中で待つ、たった一人の女性を救い出すため、裏通りの狼は、静かに牙を研ぎ始めていた。