第十話:王都への道、騎士の覚悟
王都へと向かう馬車の中は、冷たく、空気が張り詰めていた。エラーラは硬い座席に身を縮こまらせ、窓の外を流れていく景色をただぼんやりと眺める。ヴェリディアの豊かな緑は次第に姿を消し、整備された街道と、乾いた平原が広がっていた。
恐怖がなかったと言えば嘘になる。これから自分はどうなるのか、禁忌の錬金術師などという濡れ衣を着せられ、二度とヴェリディアの地を踏むことはできないのではないか。だが、不思議と心は折れていなかった。
『信じて、待て』
カイの言葉が、そして彼の燃えるような瞳が、エラーラの心の中で確かな支えとなっていた。彼女はドレスの袖にそっと隠し持っていた、小さなサシェを握りしめる。それは、祭りの夜にカイの心を和らげたのと同じ、ラベンダーとカモミールの香り。このささやかな香りが、彼女の心を落ち着かせ、思考をクリアにしてくれた。
(私は、負けない)
ただ無力に運命を受け入れるだけの、かつての貴族令嬢ではない。私には、私の知識と、そして待っていてくれる人がいる。エラーラは顔を上げ、その瞳に静かな決意の光を宿した。
一方、ヴェリディアでは、カイが兵舎にある自室で、驚くべき速さで旅の準備を整えていた。騎士団長の制服を脱ぎ捨て、旅人風の丈夫な革鎧と、顔を深く隠せるフード付きのマントを身につける。壁の大剣、そして腰には短いナイフを差し、最低限の食料と水、そしてありったけの金貨を革袋に詰めた。
「隊長!」
リオが部屋に飛び込んでくる。その目には、焦りと不安、そして尊敬が入り混じっていた。
「隊長自らが行かれるのですか。せめて、私か、他の誰かを…」
「いや、これは俺一人の戦いだ」
カイはきっぱりと言った。「お前は、俺がいない間、このヴェリディアを守れ。それがお前の任務だ。いいな」
「……はっ!」
リオは敬礼し、それ以上は何も言わなかった。隊長の覚悟が、痛いほど伝わってきたからだ。
「一つ、調べてほしいことがある」
カイは地図を広げながら言った。「エラーラの家名、ヴィンセント子爵家だ。数年前に没落したはずだが、その詳しい経緯を調べてくれ。今回の件と、無関係ではないはずだ」
「承知いたしました。必ずや」
準備を終えたカイは、愛馬にまたがった。その姿は、もはやヴェリディアの騎士団長ではなく、ただ一つの目的のために全てを擲つ覚悟を決めた、一人の戦士だった。
彼が町を出ようとすると、門の前には、何人かの町民たちが集まっていた。鍛冶屋の親父、パン屋の女将、いつもハーブを買いに来てくれた老婆……。
「騎士団長様……」
「エラーラさんを、どうか……」
彼らは、ただ祈るようにカイを見つめる。エラーラが、この短い期間で、いかにこの町の人々に愛されていたか。その光景が、カイの決意をさらに固くした。
「ああ。必ず、連れ戻す」
カイは短く、しかし力強く応えると、馬の腹を蹴った。
乾いた街道を、一騎の馬が疾風のように駆けていく。
数日後。巨大な城壁と、天を突くような白亜の塔が見えてきた。王都だ。エラーラを乗せた馬車が、重々しい城門の中に吸い込まれていく。その同じ空の下、少し離れた丘の上から、フードを目深にかぶった一人の旅人が、巨大な都市を静かに見据えていた。
その灰色の瞳は、獲物を狙う狼のように、冷たく、そして鋭い光を放っている。
「待っていろ、エラーラ」
陰謀渦巻く王都を舞台に、一人は囚われの姫として、一人は名前もなき救い手として。二人の戦いが、今、始まろうとしていた。