第一話:森の麓の小さな店
王都の喧騒も、貴族社会のきらびやかで息苦しい香水の匂いも、今では遠い昔の夢のようだ。
没落貴族の娘、エラーラは、馬車に揺られてたどり着いたこの辺境の町、ヴェリディアの森の麓に小さな家と店を構えた。父が遺したわずかな資産と、前世――日本の調香師だった頃の記憶だけが、彼女のささやかな財産だった。
「ここなら、静かに暮らせるかもしれない」
窓から見える広大な森は、魔法植物やハーブの宝庫。それは、かつて香りを愛し、香りに生きたエラーラにとって、何よりも心惹かれるものだった。
彼女は店の名を『森の雫』と名付けた。王都で流行りの、主張の強い香りではない。人の心にそっと寄り添い、癒やしを与えるような、そんな香りを作る店にしたい。開店準備を進める傍ら、森に入っては珍しい植物を採集し、アトリエに籠もる日々が続いた。
開店から数週間が経ったある日の午後。店の扉につけた小さなベルが、カラン、と乾いた音を立てた。
「いらっしゃいま……」
声をかけようとしたエラーラは、入ってきた人物を見て息を飲んだ。そこに立っていたのは、このヴェリディアの地を守る騎士団の、それも隊長であるカイ・ランヴェルドその人だった。
銀色の髪を短く刈り込み、鋼のような灰色の瞳を持つ彼は、町の誰からも畏敬の念を抱かれている。その体格の良さと、常に厳しい表情を崩さない姿は、エラーラの小さな店にはあまりにも不釣り合いに見えた。
「……何の用だ?」
カイは、店の中に漂う穏やかな香りを訝しむように鼻をひくつかせながら、低い声で言った。その声には、貴族に対する不信と警戒が滲んでいる。エラーラが元貴族であることは、この小さな町では周知の事実だった。
「ここは、香りの店です。何かお探しでしょうか、騎士団長様」
エラーラは落ち着いて微笑みかけた。彼の鎧から微かに漂う鉄と汗の匂い、そしてその奥に潜む、深い疲労の気配を、彼女の鋭い嗅覚は捉えていた。
「香り、だと? 軟弱な貴族の遊びをこんな辺境まで持ち込むとはな」
カイは吐き捨てるように言ったが、彼の視線は店内に並べられた小さなガラス瓶や、棚に置かれたドライハーブに注がれていた。ラベンダーとカモミール、そして微かな柑橘系の香りをブレンドした、安眠を誘うためのアロマが、店を満たしていたのだ。
「ええ、遊びと言われればそうかもしれません。ですが、香りは時に、薬よりも人の心を癒やす力を持つと、私は信じております」
エラーラは、棚から小さなキャンドルを一つ手に取った。「もしよろしければ、お試しになりませんか? これは夜、安らかに眠るためのお手伝いをする香りです」
カイは眉をひそめた。彼は長年、古い戦傷の痛みと、それに伴う不眠に悩まされていた。しかし、それを他人に、それも素性の知れない元貴族の女に知られるわけにはいかない。
「……くだらん」
彼はそう言い残し、背を向けて店を出ていこうとした。
「お待ちください」
エラーラは彼を呼び止め、小さな香りのサシェ(匂い袋)を差し出した。「お代は結構です。眠れぬ夜に、枕元に置いてみてください。きっと、少しだけ夜が優しくなるはずです」
カイは一瞬ためらったが、エラーラの真っ直ぐな瞳に何かを感じたのか、無言でそのサシェを受け取ると、今度こそ足早に店を去っていった。
一人残されたエラーラは、彼の背中を見送りながら小さく息をつく。
「彼もまた、癒やしを必要としている人……」
鉄の鎧の下に隠された、深い孤独と痛みの気配。エラーラは、自分の作る香りが、あの厳格な騎士団長の心を少しでも溶かすことができればと、静かに願うのだった。
これが、忘れられた香りの錬金術師と、心を閉ざした騎士が織りなす物語の始まりである。