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 ネルは学生寮に戻ろうと歩いていたが、途中やけに辺りがざわついている気がした。余計なことには関わらないに限る。足早に通り過ぎようとしたところで会話が聞こえてしまった。


「…いつかこうなると思ってたよ」


「偉そうにしていた割には呆気なかったわよね」


「でもそうなると誰が選ばれるのかしら?」


 三人の学生がひそひそ話しながらネルの横を通り過ぎる。程なくすると隣部屋の半獣人のノアが目敏くネルに気付いて猫耳を動かしながら現れた。ぴょんと飛び跳ねてネルの前に着地する。ネルと唯一交流のある相手と言っても過言ではない。


「ネル!探してたんだよ。モリス先生の講義にもいなかったから、何かあったんじゃないかって…」


「あーちょっと鼻血が出ちゃって休んでた…」


 柄にもなくへらっと笑うと小柄なノアは大丈夫?と言いながらも少しホッとした顔をした。ノアはこう見えて薬草や魔法薬の知識に長けていて上級生向けの講義にも顔を出している。


「もう!ついさっきまで大騒ぎだったんだから。ベアトリスさまがご乱心でさ」


「…ノアってそういう下世話な話にも興味があったんだね…」


 ベアトリスとは誰だ?ネルは知らないし興味もない。それよりも髪染めの染料を探さなければ。


「第八王子さまがとうとう羽化の守を決めると仰ってベアトリスさまを振ったんだ。そうしたらベアトリスさまが王子さまの顔を平手で思いっきり叩いて…」


「ぶふっ…」


 思わずネルは吹き出す。あいつ叩かれたのか。いい気味だ。


「それで…」


 だがそこでノアは固まってしまった。「あ」の口のままネルの後ろを見て止まっている。ネルは嫌な予感がした。


「ちょっと、この子を借りて行ってもいいかな?」


 後ろから聞こえた聞き覚えのある爽やかな声にネルは振り返りたくなかった。ノアは顔を真っ青にしてこくこくと頷く。耳が下がっている。


「もじゃもじゃ、モリス教授が呼んでるから顔貸して」


 ネルより頭一つ分以上高い第八王子レイにネルは左手を掴まれていた。そのまま引きずられるように連行される。皆の視線が刺さって痛い。


「ちょ…なんなんですか。この格好のときには接触して来ないで下さいよ」


 人気のない中庭に差し掛かった辺りでネルは手を乱暴に振り払う。レイはネルを振り返ってようやく顔を見た。


「君、二重人格だって言われない?」


「放っておいて下さい。大勢の前で王族を侮辱したと訴えられたくはないですからね」


 ネルは苛立ちながら顔を背けた。近付いただけで右手の甲がまた刺されるように痛い。非力なこの身体が腹立たしい。みるみるうちに包帯には血が滲み指先を伝ってぼたぼたと滴り落ちた。血を見たレイの顔色が変わる。


「ごめん。あのとき羽化の守の魔法陣を使うつもりなんてなかったんだ。ほんのちょっと付き合ってもらうくらいのつもりで…」


 そうだろうとネルも思う。突然過ぎてお互い驚いたのだから。


「…刻む方は平気でも、こっちにとっては有害なんですよ。だってまだ儀式は終わっていないんですから。こっちは首に縄が掛かってじわじわ絞められ続けてるままってこと…」


 そんなこともこの王子さまは分からないのか。何に腹を立てているのか酷い痛みで次第に分からなくなる。突発的に起こってしまった事故だから仕方ないといえば仕方ないのに無性にイライラする。

 悠長に羽化の守の儀の日程が決まるのを待っている訳にはいきそうにもなかった。この程度なら耐えられるかと高を括っていたが、そうでもないことにネルは薄々気付いていた。予想以上に相手が強くて不快だ。こうして近くにいるだけで体内の魔力の流れが乱されて倒れそうになり座り込む。頭上で不意にレイが遮断の魔術を使う気配がした。


「汝を我の羽化の守とし、汝と我は互いの血により絆を結ぶ…」


 レイが目の前に膝をついて低い声で詠唱した。何年経っても文言は変わらないのだなとどこか他人事のように思う。

 その肩越しに夕陽の燃えるような赤が目に入った。流れる雲と茜色の空をひたすら見つめる。少し意識を逸らさないと昔の屈辱を再び思い出してしまいやっていられない。尊厳も何もかもを踏みにじられ無理矢理地べたに押さえつけられる感覚。そうやって血溜まりの中でちっぽけなネズミのようにもがく自分を見下ろした冷酷なあいつではないのに、よく似た瞳なのが余計にたちが悪い。


(カチリ)


 ふと頭の奥で鍵の音が聞こえた。過去の記憶が閉ざされる。それでいい。


 レイはネルの包帯を外して、手の甲から溢れる血に唇をつけた。そのまま血を舐め取られる。どのくらい経ったのかレイが自分の左手首に一直線に爪を走らせて切るのがやけにゆっくりと見えた。血の滴る手首がネルの口元に近付いてきて唇に触れる。何をするのかは分かっているのに全く動けなかった。


「ごめん、嫌だろうけど…ある程度飲まないと儀式は完了しないから…」


 顎を少し上向きにされて生温いものを流し込まれる。飲み込むのと同時にかろうじて今まで残っていた矜持を手放した。羽化の守に己の主導権なぞ存在しない、そう思っていた方がよほど楽だ。相手の血に支配される。今度こそ割り切れると思ったのに何故か深い悲しみに襲われた。思いがけず溢れた涙をレイの震える指先に拭われた。


「本当にごめん」


 そっと抱き締められる。他人の前だと気怠い王子さまなのに、その素顔は意外と真面目で孤独なのかもしれない。ネルは自分よりも広い背中に手を回そうとしたが力が入らずに諦めて目を閉じた。


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