再会
凍りついた時を動かしたのは午後の講義が始まる五分前の鐘の音だった。次の講義があるのにサボる気満々だったレイは学院長のフレディに終わったら戻るよう言い渡されてしぶしぶ出て行った。自分も講義がと言って抜け出そうとしたネルは腕を掴まれ室内に再び引き戻されてしまう。
「ジェイドなんだろう?」
突然過ぎて相手の顔がまともに見れない。心臓の音がうるさい。てっきりこの男は戦場にいると思っていた。いつの間に似合わない学院長などになっていたのか。入学時にも不在だったから会うのはこれが初めてだった。この男も自分をなじるだろうか。裏切り者と叫ぶだろうか。だがその予想はどれも外れた。
「会いたかった…」
力強い腕で抱き寄せられて息が止まりそうになった。そこでようやく彼の片腕がないことに気付く。
「…左腕はどうした…」
「紅い竜にくれてやった…そんなことはどうだっていい!二十年振りに突然現れたと思ったら、なんて格好をしているんだ?」
フレディはそっと片手を離して相手を見返す。左は金、右は濃い緑の瞳。その煌めきは変わらないのに、あまりに強く抱き締めたら折れてしまいそうな細くて柔らかな身体は決して少年のものではない。
「…深淵に飲み込まれて、出てきたらこうなっていた…。血を流し過ぎた報いだと女神に言われた…どう足掻いても今は見ての通りの小娘だ…」
見た目と口調のちぐはぐさが拭い切れないが、ジェイドの幼い頃を知っている者なら目の前の少女に幾つもの共通点を見出すに違いなかった。共にただ一人を王にするために戦場を駆け巡ったフレディの相棒。
「で、私の腹を刺したあいつは今も玉座を守っているのか?」
物騒な口調で言って、目の前の少女は服をめくる。
「…教訓としてご丁寧に傷痕だけはしっかり残されたからな」
フレディの目にも焼き付いて離れないあの日の光景。国王に腹を刺されたジェイドの身体はゆっくりと崩れ落ち、おびただしい血が流れた。国王が首を刎ねようと再度剣を振りかざしたその時、血溜まりから突如として生えてきた青白い蔦に絡め取られてジェイドの身体は地中へと消え失せた。
「役目を終えたら早々に退場するはずだったから、別にあれでも良かったんだ。罪は私が引き受ければいいと思っていたから…」
どこか遠い目をしたかつての戦友にフレディは問う。
「あいつが憎くないのか…?」
振り返った友の目はどことなく寂しげな色をしていた。
「ん…憎いってよりは、悲しかったんだよな…信じて貰えなかったんだなと」
僅かに目を伏せた友はしばらく沈黙していたが、やがて意を決したようにフレディに向き直った。
「頼みがあるんだ。適当に身分を偽装してくれないか?このままでは羽化の守を務めることもできない…それであれは、やっぱりあいつの子どもなんだよな?」
「あぁ…第八王子のレイだよ。山程いる子どもの中であれの見た目が一番オーブリーに似ている。親子の仲は険悪なのに何とも皮肉なことだ」
羽化前の王族は皆、男女どちらでもあってどちらにも属さない。中性的な見た目はそのためだ。繭期を経て羽化し変貌を遂げる。便宜上羽化前は皆王子と呼ぶがその後の性によって呼称が変わる。羽化の守はその不安定な期間を共に過ごし守る魔術師の呼称だった。
「あともう一つ…こっちの方が重要だ。私の過去の記憶に鍵をかけて欲しい。王子と記憶が共有出来るようになっても絶対に読み取られないように。今ならまだ間に合う。儀式の途中で無理矢理止めたから。フレディならやれるだろ?」
「もちろん出来るが…負荷がかかるぞ?ちょっと待て、儀式を途中で止めただと?」
フレディは呆れて友を見返す。下手すると死んでいるところだ。手の甲の魔法陣をもう一度見ると、完成しているように見えたそれには記号が幾つか欠けていた。
「…儀式の合間に私に割り込めと?随分な無茶振りだな」
「まぁフレディがいてくれて良かった。いっそのこと余計な記憶はスッパリ焼き切ろうか悩んでたところだったから」
危険なことを平然と言ってのける辺りは昔のままだ。変わっていない。自分の身体や精神の在り方にどこか無頓着なところも。
「はぁ…なんでよりによってまた十三の歳に今度はお子さまの守なんだよ…圧倒的に不利…」
ネルの身体がぐらりと揺れる。慌ててフレディが抱き留めるとネルは青ざめた顔で僅かに笑った。そうして徐ろに手を伸ばすとフレディの首に両腕を巻きつけてきた。食わせろ、と囁いてそのまま魔力を吸い取られる。酩酊するような感覚。水を飲むようにフレディの魔力を吸っている。
「…血を流し過ぎて動けない…ちょっと休むからその間に終わらせておいてくれ…」
一瞬心地良さに流されそうになったフレディは内心の動揺を隠して咳払いした。昔からこういう奴だったと懐かしさと共に思い出す。
「運びやすい軽さでこういうときは便利だな。モイラの戦いのときは大変だったからな…」
「嫌なこと思い出させるなよ…あのときは正気を失っていたんだ…」
フレディは苦笑した。このまま灰色の世界で死んだように生き続けるのだと思っていた。消えた炎が再び燃え始めるのを感じる。フレディは片手で軽々と少女を抱き上げると学院長室の扉の文字を魔術で「不在」に変えた。