出逢い
目立たないようにしているのに、どうしてこうもしつこいのか。何が気に入らないのか。裏庭から走って逃げるうちにネルは森の近くにまで来ていた。
また捕まったネルは何度か殴られて草の上に転がる。上級生に目をつけられたのがいけなかった。眼鏡が弾け飛ぶ。まずい。胸ぐらを掴まれて無理やり立たされた。
「おい、いつもの出せよ!持ってるんだろ?」
鞄を逆さまにされて中身をぶち撒けられる。そんなところに無防備に入れる訳がないのに。
「だから…次のはまだできてないって…」
一体何度同じ事を言わせるのか。うんざりする。
「嘘をつくな!」
「ほんとうだってば…」
「必ず明日までに用意しろよ!」
三人組はようやく乱暴にネルを離すと唾を吐いて立ち去った。
倒れながら一瞬殺意が沸き起こる。脳内では簡単にバラバラ死体が出来上がる。辺り一面血の海だ。悪くない。いやダメだろう…。左目を押さえる。それよりも眼鏡はどこだ。
「…君、面白いね」
探った先によく磨かれた白い靴の先が見えた。顔を上げるとヒビの入った眼鏡を拾い上げて透かして見ている綺麗な生き物がいた。女性…?いや青年?
長い銀の髪にアメジストのような濃い紫の瞳。身にまとうどこか気怠い退廃的な空気。昔見たクソったれな誰かによく似ている。嫌な予感がした。
「なんだ。ただのガラスか。もしかして変装のつもり?」
ニコニコしながらネルを見下ろしているが、瞳の奥は底冷えする真冬も裸足で逃げ出すほど冷ややかで全く笑っていない。先ほどの三人組よりよほど魔力が強くて怖かった。咄嗟に顔を背けたが、それよりも早く左前髪をかき上げられて顔を見られた。
「…血が出てるよ。大丈夫?」
指先が唇の端に触れて血を拭い取る。その指をぺろりと舐めて、その人は微笑んだ。
「君も何か厄介事をかかえてるみたいだけど、バラされたくないでしょ?僕もなんだ。だからちょっと協力してもらうよ。右手出して」
簡単に言った言葉だったのに瞬時にして服従を強いられていた。
ネルの意思とは無関係に震える右手が差し出される。美しい生き物はその手の甲に口付けした。途端に無数の針で刺されるような鋭い痛みが走る。本能で逃れようとして無理矢理魔力を収束させると喉の奥から熱い塊がせり上がってきた。
「え…?ウソでしょ?」
驚いたような紫の瞳がこちらを見たのが分かった。押さえつける力と抗う力と。手の甲が燃えるように熱い。視界の端がチカチカする。ネルは大量に血を吐いて気絶した。
***
「あ…起きた…」
ネルが目を開けると見慣れない豪華な天井が目に入った。身体がゾワゾワする。視界が回って気持ちが悪い。主導権を握られている。それでも起き上がり視界の端に見えた銀髪の青年の首目掛けて攻撃の魔術を放った。
「わぁ〜こわっ!」
魔術は見えない防御壁によって消し去られ背後から誰かに動きを封じられた。視界が暗くなる。耳元で低い声が聞こえた。
「誰に雇われてこの学院に入り込んだ?目的は何だ?」
男に問われてネルは沈黙する。答えられる訳がない。髪を引っ張られたと思った次の瞬間にかつらまで外れてしまっていた。翡翠色の髪が視界にこぼれ落ちる。驚く相手の琥珀色の瞳に映っている自分の姿が滑稽だった。
「え…?まさか…ジェ…」
言いかけたその言葉を思わず目で制する。その名は禁忌だ。
「…彼の…娘です…」
咄嗟に思いついた嘘を口にした。記憶より歳上になっているがこの顔を見間違えるはずがない。背筋が泡立った。
「え?この子…知り合いなの?」
銀髪の青年はまるで新しいおもちゃを見つけた子どものように楽しそうな声を出す。
「あぁ…まぁ…知り合いではあるんだが…」
何とも歯切れの悪い彼の言葉に追い打ちを掛けるようにしてネルは右手を見えるようにして差し出した。
「…これ…私の星巡りなんでしょうか…」
右手の甲にくっきりと浮かび上がる魔法陣に彼は再び衝撃を受けたように瞠目した。それは紛れもなく羽化の守の術式を刻んでいた。