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二つの月

 羽化の守の期間は王子と寝食を共にするというのは理解していたジュディスだったが、かつて守を務めたのは戦時下だったこともあり、色々と勝手が違って戸惑ってもいた。訓練場から帰ると無駄に広い静かな屋敷に二人きりになる。


(しかも温泉付きって贅沢だよなぁ)


 屋敷の一階に設けられた広い温泉にジュディスは今浮かんでいた。今は亡き第三王子がこの屋敷を使っていた頃に源泉を掘り当てたらしい。寮にも湯を使える場所があるにはあるが、元々性別を偽り男子寮に入ってしまったこともあって利用したことはなかった。ほぼ魔術で身体をきれいにしていたジュディスにとって、こうしてお湯に浸かってぼんやりするなどという至福の時間は存在しなかった。


(さすがモリス教授の染料は落ちないな)


 長い黒髪を洗っても色は変わらずお湯も汚れない。身体を拭いて部屋に戻ると、もっとゆっくり入っていても良かったのに、とレイが笑いながら冷えた水の入った瓶を手渡してくれた。


「そんなに長く浸かってたらのぼせてしまうよ」


「僕も入ってくるから、その辺で休んでいて」


 レイが部屋から出て温泉に向かうと急に部屋がしんとなった。髪に魔力で風を送りながら無駄に広いソファーに座ってぼんやりする。

 窓の外には今日も金と青の月が煌々と輝いていた。月の光を浴びながら冷たい水を飲んでジュディスは目を閉じた。身体の中を移動する水の冷たさを感じる。ふと気付くといつの間にか隣にレイが座っていて、ジュディスが取り落としそうになった瓶を受け止めたところだった。そうしてレイは瓶に残っていた水をゆっくりと飲み始める。まさか眠っていた?慌てて飛び起きると、レイが驚いてこちらを振り返った。


「ごめん、起こしちゃった?」


「レイ…その傷は…?」


 レイの緩く羽織ったシャツの隙間の左肩から胸の部分にかけて鋭い大きな爪で引っ掻かれたような傷痕が何本も残っていた。


「昔の傷だよ…」


 レイは柔らかな笑みを浮かべる。


「四番目のお姉さまの趣味の悪い遊びだよ。獣人に追われてやられた。僕はお母さまがくれたお守りのお陰で助かったけど…」


 追ってきた獣人に大きな鈎爪で引っ掻かれ、あまりの痛みに死を覚悟した。それでもなんとか逃げようともがいていると、首に下げていたお守りが突然開いた。


「お守りの中からすごい勢いで光る蔦が生えてきたんだ。僕を襲った獣人はあっという間にその蔦に絞め殺されていた。後でお母さまに聞いたら、二人だけの秘密にしてねと言ってお守りの中に入れてあった翡翠色の髪の毛を見せてくれたんだ…」


「えっ…?」


「お母さまは…翡翠色の髪の魔術師の話をするときだけ、とても楽しそうだったんだ。きっと彼のことが大好きだったんだなと子どもなりに思ったよ。僕とそっくりな顔をした父親よりもね…」


「レイ…」


 ジュディスはレイの傷痕を見つめて沈黙する。掛ける言葉が見つからなかった。


「でも、今ここにいる僕の命を繋いでくれたのは間違いなく君なんだ…まさかこうして女の子の姿になって現れるとは思ってなかったんだけど」


 レイはジュディスの手を取り自分の傷痕にそっと押し当てた。


「僕の隣に歴史書の中の魔術師が座ってるって思うと、正直どうしていいのか分からないよ。歴史書に書かれた君は容赦なく残酷で誰よりも強くて…でも今は美しい女の子で僕の羽化の守なんだ…」


 レイは一気にまくし立ててジュディスを不意に抱き締めてきた。


「僕にこんな風にされるのは嫌?」


「嫌じゃない…よ。正直なところ、自分でもよく分からないんだ。昔のことをよく覚えてはいるけれど、少し上の方からあの頃の自分を見ている感覚になっているというか…。それにもう自分はレイの羽化の守だから、どうしたってレイの感情の方に強く引き寄せられる…」


 ジュディスは間近にある傷痕を指先で辿った。こんな苦しみを与える前にお守りが開けばもっと良かったのに。


「確かに蔦は…昔よく使っていたんだ…だから緑の魔物とか悪魔とか色々呼ばれてきた…ほら、こんな風に…」


 ジュディスが髪の毛に意識を集中するとやがて毛先が青白く光り出した。するすると髪の毛が伸びて青白く光る蔦に変わる。光る蔦は次第にレイを絡め取る。けれどもレイは身動ぎ一つしなかった。


「怖くない?」


「…どうして?」


「人の理から逸脱してるって自分でも思うから…満月に近いほど、形が緩む…」


 話している間にも光る蔦はどんどん伸びてレイの身体を覆ってゆく。皮膚の表面を優しく撫でられる感触がしてそのままゆっくりと魔力が吸い取られるのが分かった。全身から力が抜けた。


「もう少し貰うから…嫌だったら言って」


 やがて皮膚の内側にも蔦の侵食してくる気配がした。不快ではないが、魔力と同時に身体の熱も奪い取られて次第に冷えてゆく。全身が痺れて鼓動がやけに大きく聞こえた。このまま魔力を吸い取られ続けたら死ぬのだろうか。辺りは驚くほど静まり返っていた。目の前に深淵が見えたような気がした。最期はここに落ちるのかと思った瞬間にジュディスの魔力が一気に流れ込んできて光が射した。死の淵は遠ざかり温かくて柔らかい感触に包まれる。


 レイが目を開けると、金と濃い緑の瞳が少し心配そうにこちらを見上げていた。光る蔦はもう消えて髪は元に戻っている。


「すまない…怖かったか?」


 小さな手がレイの頭を撫でた。


「…大丈夫…ちょっと変な感じだけど…」


「今のでお互いの魔力の半分ほどを入れ替えたから…手首の黒い蔦の成長に何が影響するのかを調べたくて…」


 ジュディスはレイの左手首を手に取ると徐ろに黒い蔦模様の長さを測り手元に取り出した表に日付と共に記入した。


「単なる時間経過だけじゃなく、その他の要因も調べて蔦の成長を止める方法を探すよ」


「何だか研究者みたいな顔してるよ?」


 レイが苦笑する。


「先の羽化の守が皆嘆いてばかりで研究資料を残さないからだよ。足の引っ張り合いは得意でも助け合うって発想は皆無なんだ…第五王子の治癒師の弟子が早く見つかるといいけれど、果たして有益な情報が得られるかどうか…」


「そうだね…」


 レイはそれきり沈黙する。やがて静かな寝息が聞こえてきた。少し無理をさせてしまっただろうか。態勢を変えて膝の上にレイの頭を移動する。銀の髪に月の光が当たって綺麗だと思った。そっと撫でてジュディスも目を閉じた。


***


 同じ頃、金と青の月を見上げながらフレディは学院内にある屋敷でグラスを傾けていた。強めの酒が入っている。僅かな物音がして振り返るとフロレンティーナが入ってきた。


「ノアを寝かしつけたら遅くなったわ…ネルの作った魔法薬が一番効くんだって」


 ネルの格好でそう言いながら歩む途中で赤い髪の少女姿に変わる。


「随分と仲良くなったじゃないか」


 フレディが低く笑う。が、ふと真面目な顔をして呟いた。


「あれは、まだ夜が怖いのだな…」


「あら知っていたの?」


「ノアを拾ったのは私だからな。あれと会ったのは南方の奴隷市だよ…」


「あなたってほんとあちこちから何でも拾ってくるのね。そういう運命なのかしら?」


「…気紛れに私を拾ったお前がそれを言うのか?」


 フレディが問うと、フロレンティーナは形の良い眉を僅かにひそめた。


「あのまま死なせた方が良かったというの?炎も燃え尽きて、全てを投げ捨てたまま?そうしていたら今頃ジェイドにも会えなかったのよ?」


 フロレンティーナは徐ろにフレディの膝の上に座って髪をかき上げる。少女はそのまま若い女性の姿に転じた。フレディの手からグラスを奪って中の酒を一気に飲み干す。


「これのどこが美味しいの?人の好みはさっぱりだわ…」


 そう言いながらも首に白い腕を絡めて蠱惑的な瞳でフレディを見つめる。


「戯れに交わした私との盟約など忘れ去っているものと思っていたよ…」


 フレディの言葉にフロレンティーナは怒ったような顔をした。そのまま噛みつくように荒々しく口付けをする。


「勝手な人ね。人の一生はただでさえ短いのに、炎の消えたまま、あなたはお爺さんになってしまうのかと思ったわよ」


「…苦情はなかなか戻らなかったジェイドに言ってくれ…お前の予言を信じてはいたが、こんなに待たされるとは思っていなかった…」


 再び唇を封じられてフレディは言葉を飲み込んだ。酒よりも熱いフロレンティーナの炎が身体に流れ込んでくる。フレディを死の淵から拾い上げた炎だ。


「…あなたの炎が欲しいと言ったのは私よ。やっと燃え始めたのだから、もう二度と絶やさないわ」


「お前も物好きだな。一族を捨てる価値など私にはないぞ…買い被りすぎだ」


「あなたの価値を決めるのは私よ」


 フロレンティーナが耳元で囁く。吐息が熱かった。金の獣の瞳が間近に迫ってフレディは目を閉じた。今度は優しくついばむような口付けが降ってくる。重なる二つの影を月が煌々と照らしていた。



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