過去
「あーもうっ!ノアいい加減に離れてよ!」
ネルの姿のフロレンティーナはノアに懐かれてうんざりした顔をしている。ぴったりと抱きついて離れない。ゴロゴロと喉を鳴らして擦り寄っている。ソファーに押し倒されそうになったネルは逃れようと必死だった。学院長は半ば呆れた様子で二人を見下ろした。
「恐らく獣人に効果のある媚薬の類だろうな。うっかり吸ったようだ。抜けるまで付き合ってやれ。何なら私の休憩室を貸してやろうか?ベッドもあるぞ?」
「学院長!学生相手になんてこと言ってるんですかっ!」
エステルが顔を赤くして抗議する。また少し光った。
エステルは光を放つ魔力を持っていた。ただしどういう訳か他の魔力はほぼ使えない。暗闇では役立つがそれだけだと自分でも思っていたのだが。
「それにしても君の発光能力がまさかこんなところで役立つ日が来るとはね。お陰で助かったよ」
「そっ…それはお役に立てて何よりですけど…」
学院長とエステルがそんな会話を交わしている後ろでは、ネルの鞄をジュディスが漁って箱から何種類かの小瓶を取り出したところだった。
「緑と青と半分ずつ…」
「え?私がやるの?」
「だって私はさっきあれを吸ってきたばかりだから、混ざると危険…」
「あぁぁ…ったく」
諦めたようにネルが小瓶の中身を半分ずつ飲む。そうして眼鏡を外すと再び抱きついてきたノアの顎を掴んだ。二人の前にさりげなくジュディスが立って目隠しとなったのでエステルには見えなかったが、ネルが口移しで小瓶の中身を飲ませているのが学院長の位置からは丸見えだった。
「…にゃあ…ん!?」
程なくして我に返ったノアが変な声を上げる。明らかに怒気の含んだ顔でネルがにっこりと笑う。
「次にやったら本当に食うから覚悟しな」
「…!!」
ノアはネルの上から慌てて飛び退くとそのままソファーの角に真っ赤になった顔を隠してうずくまってしまった。ネルはため息をつきながら、もじゃもじゃの前髪をかき上げた。眼鏡を片手に持ったまま、ソファーの背もたれに寄りかかる。
「…という訳で、エステルにも今後は協力を仰ごうと思うのだが異存はないかな?」
二人の様子を見るともなしに見ていたエステルは学院長の言葉の一部を聞き逃していた。
(あれ…?ネルって眼鏡を外すと別人…もしかして美形?)
「聞いてるのか?エステル。君もまさか媚薬を吸ったんじゃないだろうな?」
突然学院長がエステルの顔を覗き込んだので、エステルは飛び退いた。
「いえいえっ!私は大丈夫です!問題ありませんっ!」
「…ネルと私には効かないけれど、耐性のない人には後から影響が出るかもしれない。一応これを飲んで」
エステルはジュディスから緑と青の液体が半分残った小瓶を手渡される。恐る恐る口に流し込むとほんのり甘くて美味しかった。
「あれ…?」
急にもやのかかったような頭がはっきりする。
「すみません、学院長もう一度お願いします」
「学生間で何やら薬が出回っているらしい。その調査をエステルにもお願いしたい。学生の方はネルたちが追っている。エステルには庶務と教務課にも関わっている人物がいないかどうか目を光らせておいてほしい」
「えーっ!?私がですか?」
とんでもない任務に今度こそエステルは素っ頓狂な叫び声を上げた。
***
ネルとノアは一足先に学生寮に戻りエステルも学院長に言いくるめられて持ち場へと戻って行った。残るはジュディスとレイだったが、レイの気配は奥の部屋にはあるものの、とても不安定で近寄り難かった。
「で、突然出て行ったと思ったら、一体何を取り込んで来たんだ?」
ジュディスに向き直ってフレディが眉をひそめる。
「…地底に眠っていた精霊が私の血を吸い過ぎて目覚めてしまった…ってところかな。しばらく浄化しないと元の姿には戻らない」
「あぁ…君の血は昔から精霊を魅了するものだったな…ここ数年精霊は姿を潜めていて精霊遣いは商売上がったりだったのだよ。精霊の浄化か…ついに温室を開く時が来たな」
「温室?」
ジュディスは不思議そうな顔をする。フレディは机の引き出しから細工の美しい鍵を取り出した。
「先に入って、精霊を影から離しておきなさい。少し後からレイを連れて行くから慰めてやるといい」
言いながら虚空にフレディは鍵を差し込む。何もなかった空間に突如として扉が現れた。開くと扉の向こうは柔らかな陽射しの差し込む温室だった。背中を押されてジュディスが中に入ると、足元で精霊の身動ぎする気配がした。
(太古の森の空気…)
吸い込んでジュディスは目を閉じる。女神に抱かれて怨嗟の念を取り払ってもらった場所もこれとよく似た空気だった。
(私の影から出て少しここで休んでいてくれるか?そうすれば濃すぎる血の匂いも抜けるだろうから…)
影はのろのろと動いてしばらく辺りを彷徨っていたが、やがて一本の樹木に吸い込まれて消えた。休むのに丁度よい場所を見つけたようだった。
ジュディスも少し歩いてベンチに腰を下ろす。目を閉じていると、扉の開く音が聞こえた。
フレディに肩を借りて歩いてきたレイは、ジュディスを見つけると力のない笑みを口元に浮かべた。顔色が悪い。
「長居し過ぎると人の理から離れてしまうから程々にな。あまりに戻るのが遅いようなら呼びに来る」
ジュディスの隣にレイを座らせるとフレディは出て行ってしまう。
「…情けない姿を見せちゃったね…」
レイが額を押さえる。その左手首の蔦模様が前よりも急に成長しているように見えてジュディスはドキリとした。
「…触れても大丈夫か?」
「うん…」
目を閉じたレイがジュディスにもたれ掛かる。左手にそっと指先を絡めてジュディスは静かに息をしていた。レイの緊張が伝わってくる。
「学院長から君の血で精霊が現れたって…聞いたけど…」
「うん…目が覚めたって…契約を迫られた」
「君…何者なの?」
レイが僅かに笑う。
「僕は生まれてから今まで一度も精霊の姿を見たことがないんだよ」
「そう…なんだ。何者かって質問には…今どうしても答えなきゃダメか?」
「答えられない質問?」
「うん…多分レイに嫌われたくないんだろうな。いや違うな。嫌われてもいいけど、傷付けたくないんだ…」
「どうして僕が傷付くって思うの?必ずしもそうとは限らないよ。君の方がずっと傷付いた顔をしてるのに気付いてないの?」
ハッとしてジュディスは目をこする。いつの間にか涙が流れていた。ここの空気は危険だ。うっかりすると心が緩んで感情が表に出てしまう。
カチャリと静かな音が響いた。心の中に響くそれとよく似た音はフレディの開けた扉の音だった。
「ジュディスはその質問には答えないよ。だから私が教えよう…どのみち隠し通すと、この先どんどん苦しくなる。それで壊れるならその程度の絆でしかなかったということだ…」
フレディの鋭い琥珀色の瞳と目が合う。
「ダメだ…言うな…!」
ジュディスは叫んだがフレディは首を横に振った。
「君の父上が何故翡翠色の髪を凶兆と呼ぶようになったかその理由は知っているか?」
「…昔…その髪の色の魔術師に裏切られたからだと…」
「そうだ。歴史書にはそう書かれている。その実、周りの甘言に惑わされたのは君の父上の方だったというのに。翡翠色の髪の魔術師は、ただ父君に玉座を与えるそれだけのためにずっと戦っていた。私と共にね。彼は信頼できる私の右腕だった。そうして玉座を得た父君は、いつの間にか彼が己の玉座を狙っていると隣で囁く甘い第一王妃の声に騙されて、とうとうその腹を刺した…」
「やめてくれ!聞きたくない!」
ジュディスが顔を覆って叫ぶ。隣のレイがどんな顔をしているのか確かめるのが怖かった。
「その後は、おおむね歴史書の通りだ。刺された彼は地中に吸い込まれて消えた。彼には半分精霊の血が流れていたから、そちら側に連れ去られたんだ。そして最近になって突然戻ってきた。この少女の姿になって。君は歴史書を読んで違和感を覚えなかったのか?何故彼がこの国の玉座を狙う?正統な継承権のある南方王朝の玉座すら要らぬと言ってこの国に逃れてきたというのに」
「フレディ!!やめろ!」
ジュディスは立ち上がってフレディに殴りかかる。フレディはジュディスの拳を避けて軽々と魔力で拘束する。そうして乱暴にシャツのボタンを引きちぎり腹の刺し傷をレイに見せた。
「この傷痕がその証だ。精霊をも斬ることができる王家に伝わる剣…女神の手をもってしても戻せぬほどに、こうして深い爪痕を残す」
「もう止めてくれ…頼むから…」
ジュディスはか細い声を出した。
「…私は確かに戻った。けれど…誰も恨んだりしてはいないんだ…もうずっと昔に終わってしまったことだから…」
顔を背けたままジュディスは苦しげに声を振り絞る。いっときの静寂が辺りを包む。しばらくして口を開いたのはフレディだった。
「…と、本人は言っているが、これでも信じられないか?レイ?」
フレディの声色が突然優しく変わる。すまない、と耳元で低い声が囁いた。
「見るんだ、ジェイド」
昔の名を呼ばれる。見たくないと首を横に振る。子どもじみた仕草だと自分でも思った。
「お願い、僕を…こっちを見て」
間近でレイの声がして両肩に手が触れた。
「こんな試すようなことをして、本当にごめん…お姉さまの言葉を聞いて…ちょっとだけ僕は動揺してしまったんだ…本当にちょっとだけ…」
「第四王女がお得意の根も葉もない持論を展開しただけだと言ったのに。蔦模様は翡翠の髪の魔術師の死の呪いだなどと勝手なことを。だから本人の口から言わせた方が早いと思った…」
フレディは魔力の拘束を解いてため息をついた。
「それにしても学院長…悪乗りが過ぎますよ…」
レイはローブを脱いでジュディスの肩にそっとかけると破れたシャツを隠した。そうしてジュディスの前に膝をついて頭を下げた。
「父が君の心も身体も傷つけてしまって本当に申し訳なかった…今更僕が謝って済むようなことではないけれど…それでも僕は君がまた戻ってきて、こうして僕の羽化の守りになってくれたことを嬉しく思っているんだ…」
レイは立ち上がると、ジュディスの頬の涙をぬぐって抱き締めた。
「え…?嬉しいって…本当に?」
信じられないという様子でジュディスがレイを見上げる。
「うん、本当だよ。後でちゃんと説明するから」
レイが頷く。
「二人ともそろそろ温室から出ようか」
フレディに促されて二人は我に返った。
「人の理から外れるのもまた一興だが…って、ジェイそんな怖い顔をするな」
昔のように呼ばれて再びほんの少し胸が苦しくなった。感情を揺さぶられる。
「フレディ…笑えない冗談だ…ここの空気は一体どうなってるんだ?」
扉を開けたフレディにジュディスが問うと彼にしては珍しく自嘲気味に笑って遠くを見た。
「柄にもなく感傷的になった男が、何年経っても戻らない友のために墓をと思ったんだ。彼は何一つ残してくれなかったが、とある女性が所有していた髪が一房だけ残っていた…それを埋めたんだよ。この温室に」
「えっ…その話って…まさか…」
「お母さま!?」
「レティシア?」
レイとジュディスの声が重なる。再び二人は驚いて顔を見合わせる。
「おや、知らなかったのか?レイの母親はレティシア…その昔眠っている君の髪を果敢にもハサミでちょん切って持ち逃げした私の異母妹だよ」
妹のいたずらも時を経てこうして再び役に立った訳だ、とフレディは感慨深げに言った。




