序章
ネルは自分の分はわきまえているつもりだった。所詮己は有象無象の中の一つでしかなく、光が当たるのは常に別の誰かであって己は陰なのだと。
歴史を布地に喩えるなら表の華々しい模様に出るのは己ではなく裏地にある糸目、それこそが己なのだと。
王立学院の裏庭の木陰でゆっくりと歴史書を紐解くのがここ最近のネルの日課だった。
お前は勉学に励む時間もなかったのだから、今回くらいはそうしたっていいだろう?
確か目覚めたときにはそう言われた。
もじゃもじゃの長い黒髪が左目を覆っており眼鏡もかけているので、誰かに簡単に表情を読み取られることもない。
色々と詮索されるのも面倒だったので、こうして一人でいる方が気楽だった。優しい木漏れ日の中サラサラと葉擦れの音だけが響く。次のページを開こうとしたそのときだった。
突然頭上から重たい何かが降ってきた。バシャッと音がして全身ずぶ濡れになる。下品な複数の笑い声が聞こえて、それが偶然などではなくネルを狙ったものなのだとすぐに理解した。
(…下らない)
ずぶ濡れのまま立ち上がって静かにその場を去る。ここもダメか。相手にするほど暇ではないのに何故こうも執拗に絡んでくるのか。ネルはため息をついた。
***
(つまらない…)
第八王子レイは王立学院の研究棟の空き部屋にいた。窓辺に座ってぼんやりと外を眺めている。ちょっとした気晴らしのはずだったのに、むしろ気分は最悪だ。
「レイ様どうしました?」
金色の髪を巻いたベアトリスが年齢の割には豊満な胸をレイの腕に押し当てて上目遣いに見上げてくる。わざと大きく開いた襟元から甘ったるい不快な匂いが漂ってきた。懲りずにまた媚薬を使ったか。
規則違反のギリギリまで自らを飾り立てて権力には貪欲で傲慢な少女。その性格といいまるで第四王女にそっくりだ。魔力の相性も最悪で胸焼けがする。
「別になんでもないよ…」
近付いてきた唇を避けて、やんわりと腕を外すとベアトリスは一瞬不機嫌さを露わにした。
(あぁ面倒くさい)
近くで別の少女たちに甘い言葉を囁いているブルーノとダリルが目に入る。少女たちは少し困惑している。あまり真面目な良家の子女は連れて来るなと言ったのに。そろそろこの遊びも潮時か。
そのとき窓の外で誰かが魔力を放った気配がして、レイは何気なくその方向を見た。大きな水の塊が裏庭の大木に落下する。下らない愉しみに耽る連中は全く気付いていない。レイは立ち上がった。
「ちょっと用事を思い出したから失礼するよ」
ベアトリスが何かを言いかけたが、レイは無視して部屋を出た。