おうじさまのもとへ
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
ほほう、人形劇の歴史を調べているのか。
そういえば最近、人形浄瑠璃のことが授業で出たっけ。それをさっそく探ってみようとは、相変わらずつぶらやは熱心だな。
人形といえば……つぶらやは小さいころに、人形遊びって好きだったか?
別に女々しい意味ばかりじゃない。自分ができない仕草や行動なりを人形に託して、代わりにやってもらう。こいつは人形遊びの大事な遊び方のひとつだと、俺は思っているのさ。
身分、性別、外聞、見た目……それらにふさわしいものが求められ、がんじがらめにされて、破ればすべてが壊れてしまいかねない。
それでも、羽目を外してやりたいことがあるなら、こいつらの出番だ。人形という型は用意した、あとはお前が舞台をつくれ……というところだな。
そうして、ときにかなわない夢を託される人形たち。その重さゆえに、何も起こらないはずがなく。
俺の昔の話なんだが、聞いてみないか?
俺が小さいころ、家には人形がたくさんあった。
厳密には妹の持っていた、ドールハウスの中にだな。兄の俺がいうのはなんだが、妹は好きなことには入れ込むものの、それ以外のことにはほぼ無関心な奴でな。
俺に関しても、人形遊びに付き合うなら徹底して甘えてくるが、そこから離れるや、ほとんど口を聞いてくれなくなる。
自分の世界を大事にする子なんだろう……とは親の評だったが、まだ幼い俺には、その豹変ぶりが怖いやら、腹が立つやらでさ。
ドールたちに手を出すと、妹はおろか買ってくれた親たちからも、いい目では見られないだろうし、やむなく妹の人形遊びに付き合ってやったんだが。
「おうじさま、おうじさま。どうかわたしとけっこんしてくださいまし」
なぜか人形越しに、プロポーズされる時間が始まってしまった。
着せ替え人形全盛期だったためか、かのドールハウスにも無数の着替えが用意されてな。
その中でいっとう派手で細かい「ぶらいだる」なファッションがお気に召したようで、こいつの相手を俺はやらされていた。
「おお、ひめよ。もったいなきおことば。このおうじ、つつしんでおうけいたします」
――なんで、俺のほうが下っぽいんじゃい!
兄であることもしかりだが、当時はまだ女子に成長期が訪れておらず、男のほうが背が高い傾向にあった。
世界をよく知らない子供にとって、図体のでかさは分かりやすいアドバンテージ。そいつを有する男こそ、優位に立つべきだと俺は感じていたんだ。
それが、妹の作るお人形の世界では、お姫様にかしづくポジションにおさまることがほとんど。
今度の場合も同じで、お姫様があたかも自分で相手を見つけて、自分から結婚を申し込んだようなシチュエーション。それを王子さまは唯々諾々と受け入れなくてはいけない。
これじゃまるきり、お姫様のおもちゃじゃないか。そりゃ、このグッズ一式がおもちゃだけど。
そして一番困るのがこれだ。
「――おうじさま、おうじさま。どうかわたしとけっこん……」
エンドレスリピート。
妹は自分が納得いくまで、同じことを繰り返しがちなんだ。いや、納得がいっているのかは、兄の俺でもうかがい知れないな。
自分にとって手慣れた、安心感を覚えることを繰り返し、新しいものにはなかなか手出しをしない。それでもって、自分の心の安定を保とうとしている。
そういう人もいるんだと、寛容な心持ちになれたのは、こうして歳をくってからの話。
当時の俺にとっては、ただの拘束時間に過ぎず、いらいらを募らせる要因だ。一刻も早く、この茶番が終わることを願うばかり。
途中で放り出すと、また妹が泣き出すなりして、俺が親からお小言を食らうことになる。
逃げることを許されないしんどさを、俺は子供の身で早くも味わったんだ。
そのことを直接口に出すことはしなかったが、言葉の端々やしぐさに、うっとおしさや面倒くささを根気よくにじませていたおかげか。
妹は俺を人形遊びに誘うことはなくなったんだ。当初こそせいせいしたものの、本当の平穏が訪れたわけじゃなかった。
妹がひとりで全部やるようになるだけだったよ。
お姫様が王子様を誘い、王子様はそれを受け入れる。かの決まりきった台本が、出かけ先から帰ってきても、繰り広げられているんだ。休みの日なぞ、起きてから寝るまでほとんどこればっかりしていることがある。
俺とて、のちにゲームを一日中ぶっ通しでやる経験を重ねるから、最終的に人のことはいえないかもだが……妹はひたすら繰り返しだからな。
どんどん先に進めるストーリーとは違う、そこだけ録画して、ひたすら繰り返しているビデオのような不気味さがあったんだ。
理解できねえと、つい母親に愚痴ったことがある。
うちは妹と母親以外は男しかいないからな。この手の女の心理ぽいやつは、母親をあてにさせてもらうしかない。そう思ったんだ。
「――それは遊びじゃないかもね。あの子自身にとっちゃ練習、あるいは勉強……」
「勉強?」
練習ならまだわかる。
やたら「おヨメさん」の概念にとらわれているクラスメートは目にしていたからな。「ケッコン」に憧れるのは分かるが。
でも、勉強とはどういうことだ。
あのおままごとが、本当のケッコンの助けになるとは、いかに知識のないガキンチョな俺でも、とうてい考えられないんだが。
「たとえ人間にはつたなくみえても、他のものにはそうとは限らない……知らないものに教えるのは、自分にとっても相手にとってもお勉強なのよ。動物に芸を仕込む苦労からしら」
――動物? 動物に何か教え込んでいるのか?まさか動物って俺? ますます嫌な気分なんだが……。
すでに相手から外された俺に、そのような方向はないだろうと、すぐに思い至りはした。
ならばいったい、相手は何だというのだろう?
幸運なのか、不幸なのか。
俺はそいつが妹の、勉強の相手とは思わなかったんだ。
その日も家から帰ってくるとな、妹が例のプロポーズのセリフを言っているのが聞こえて、「またやってるよ」とあきれ顔だった。
ここのところ、手狭だった部屋ではなく、お客様などを通す居間が妹の練習場所となっている。
着替えている間も、そのまま部屋で漫画呼んでいるときも、変わらず声が響いていてさ。
いつにもなくボリュームが大きいものだから、いやでも耳に入ってくる。
「――おうじさま、おうじさま。どうかわたしとけっこん……」
もうどれほど耳にしたフレーズだろうか。
その数えきれないただ一回が、また訪れるだけと俺は思っていたんだが。
どん、と短く大きい揺れが一度だけ。
家全体を揺るがす強さに、俺はつい飛び上がりそうになったが、それ以上にぱっと妹のことが気にかかってしまう。
今日は、親がちょうど用事で家をあけていて、俺と妹が留守番を仰せつかっている。とっさに「あいつが何か、やっかいなことになってないか?」と心配になったんだな。
普段は意識しないが、肉親の情が反応したというか。
俺はぱっと漫画を放り投げて、階下のあいつがいる居間へ走ったんだ。
まず目に入ったのが、敷かれたカーペットのうねりだ。
帰ってきた時までは、しわひとつなく、ぴっちりと敷かれていた。それが今は、表面に渦のような形の「より」を見せている。
その中心は、座り込む妹とそばのドールハウスにある。
妹の右手から先は、たっぷりと茶色い液体に汚れていたが、その端にあの人形の「ぶらいだる」衣装の一部が握られている。
液体は手の真下の、カーペットにも大きく広がっていた。座り込む妹の身体がすっぽり入ってしまうほどの大きさだったよ。そこにかざされた妹の手のひらから、ぽとぽとと追加の液体が落ちていく。
「ようやく……ようやく、けっこんできたね」
妹が他の言葉をいうのも、ずいぶんと久しい気がしたよ。
でも、それ以上に妹が嬉しそうに笑っている横顔に、俺はまた背筋が寒くなる。
あれが母親のいうように、練習で勉強だったなら、おそらくその成果が出たんだ。嬉しくないはずがないだろう。
俺はここまで急いできた。足音も聞こえ、自分が見られていることも、妹は感じているはずだ。
それを意に介さない、静かな喜びよう。その心も、俺が見ることかなわなかった、「おうじさま」に向けられているんだろう。
それから妹は、憑き物が落ちたように人形遊びから遠ざかってさ。俺があのときに、これこれこういうことがあっただろう? と尋ねてもろくな反応を返してはくれなくなった。
覚えていないのか、とぼけているのかは、今も判断がつかない。
あのあと、調べた茶色い液体の部分。浅くではあるがカーペットに穴が開いていたけれど、床までは開いていない。
「おうじさま」は、カーペットと床の間にいたんだろうか。
そのおうじさまに嫁ぐために、おひめさまとして妹は練習を重ね、それが嫁ぐ意思の表れであると伝えたかったのだろうか。