キュウリの九太郎
星屑による星屑のような童話。
お読みいただけるとうれしいです。
ある、夏の日のことだった。
忙しなく鳴き騒ぐセミたちがとまる木々の間を自転車ですり抜け、ピンク色のリボンのついた大きな麦わら帽子を被った里美さんは、野菜作りのために借りている市民農園へとやって来た。
「今日も暑いわねえ……。水やりだけして帰りたいところだけど、そろそろキュウリが食べ頃だし、収穫しておかないとね」
自転車から降りた里美さんが、額に噴き出した汗を首に巻いたタオルで汗をぬぐう。そして、お昼まではまだ少し時間があるというのに、早くも空の王者として君臨する太陽を恨めしそうに見やると、自転車の籠の中にあった収穫用のハサミを取り出し、鮮やかな緑の広がる畑に向かって歩きだした。
――里美さんは、結婚して3年目の主婦だ。
結婚する前は街中の会社で事務をしていたのだけれど、結婚を機に家庭に入った。最初の1年は、専業主婦という「仕事」もそれはそれで楽しかった。けれど、家の中にいてばかりではつまらないと感じた彼女は、2年目から家庭菜園の趣味を始めたのである。
自ら種をまき、育て、やがて収穫するという過程も好きだったが、何より、ここで採れた野菜を使って料理を作るのが、最近の楽しみのひとつになっていた。
そんな里美さんが、自分の畑を前にして、立ちすくんでしまった。
なぜって――そこには、昨日まで形すらなかったとてつもなく立派なキュウリが、なんとひとつの茎から9本もなっていたからである。スーパーで並んでいるような、ごく一般的なキュウリと比べるととても大きく、色も鮮やかだ。
形も美しい流線型をしており、まるで絵画のように整っている。まさに、究極のキュウリといえた。
「うわぁ、すごいキュウリね! きっと、めちゃくちゃ美味しいわよ」
里美さんは、その究極のキュウリを9本とも収穫すると、喜び勇んで家に持ち帰ったのだった。
家に戻った里美さんは、早速、9本のキュウリを台所へと運び、水道水で軽く洗うと、冷蔵庫の野菜室へとしまった。
――どんな料理なら美味しく食べられるかな?
そんなことを考えつつ家事をこなしていると、まだ夕方前だというのに、夫の太郎さんが車で帰宅した。
「ただいま。いやあ、今日も暑かったねぇ……」
「あら、お帰りなさい。早かったわね。どうしたの?」
「この近所で営業があったんだけどさ、今日は暑くて仕事にならないから、早めに帰らせてもらったんだ」
不動産関係の会社で営業の仕事をする、サラリーマンの太郎さん。
しかめっ面して玄関から廊下を渡ってリビングに入るなり、汗だくになったワイシャツを脱ぐ。
すると、すぐさま太郎さんに駆け寄ったのは、里美さんだった。
腕に抱えるようにして持った9本のキュウリを、太郎さんに自慢げに見せる。
「ねぇ、太郎クン。このキュウリを見てよ……。すごいでしょ」
「ん? キュウリ?? 確かにすごくきれいな緑色してて、形もきれいだし立派だとは思うけど……」
「そうでしょ? これ、私が育てたんだから――。で、どうやって食べたい?」
「うーん。別に俺、キュウリ好きでもないし、特に思いつかないな。里美の好きなように料理してもらえればいいよ」
里美さんは、太郎さんがもっと喜んでくれると持っていたので、少しがっかり。
小さなため息を吐くと、言った。
「じゃあ、浅漬けにでもしようかな……」
と、そのときだった。
9本のキュウリのうちでも一番太くて立派な一本が、里美さんの腕の中から飛び跳ねたのである。
それは三回転ぐらい宙を舞ってから、すっくと床に降り立ち、こう言った。
「オイラは、キュウリの九太郎。オイラたち、長男の一太郎から九男の九太郎まで、みんな究極のキュウリなんだぜ。それなのに……なんだその言い方は! 夏の井戸水くらいに冷たすぎる。もう少し、食べたい料理とか考えつかないのか? きゅ、きゅう!」
「いや、特には……。というか、なんでこいつ、しゃべってんだ? それに、『きゅ、きゅう』って何? キュウリって鳴くものなの!?」
太郎さんが、目を丸くして驚く。
里美さんは、あまりの出来事に口をあんぐりと開けたまま動けなくなった。
しかし、そんなことにはお構いなしのキュウリの九太郎は、どこに足があるのか、床の上でぴょんぴょん飛び跳ねて怒った。
「キュウリがしゃべったり鳴いたりして、どこがおかしい! ……まあ、いいか。あんまり怒ったら、せっかくきれいな肌の艶が悪くなる……。そんなことより、そこの『太郎』とやら。オイラたちの生みの親ともいえる奥さんの里美さんをかけて、オイラと勝負しろ!」
「さ、里美をかけて勝負だと!? キュウリごときが、ちょこざいな……。だが、仕方ない。そこまで言うのなら、その勝負、受けてやろうじゃないか。何の勝負か、わからんけど」
「え、受けるわけ、太郎クン? ……っていうか、太郎君が負けたら私、このキュウリの九太郎クンと付き合わなきゃいけないの? それに、もうひとつ言わせていただければ、『ちょこざいな』っていう言葉、死語だと思うよ」
「……里美。今、大事なのはそこじゃない。これは、男と男――いや、男とキュウリの真剣勝負なんだ。女の里美が口を出すことではないのだ――って、そうか。里美、俺のことを心配してるんだな。大丈夫、俺は絶対に負けないからさ。安心しろ」
「いや、そういうことじゃなくてね――」
里美さんの心配?をよそに、太郎さんと九太郎がにらみ合う。
「絶対に負けないだと? それはキュウリのセリフだ」
「ふん。たかがキュウリ風情が人間様に勝負を挑むとは、良い度胸だ。コテンパンにしてくれる!」
「なにをこしゃくな! そっちこそ、たかがサラリーマン風情でこのキュウリ様に勝てると思うのか! きゅきゅう!」
それを言い終わったか、終わらないかの瞬間だった。
どこにそんな力を生み出す筋肉があるのか、九太郎が空中に向かって2メートルほどジャンプ。そして、頭か足、どちらかの先っちょを太郎さんの額にぶつけるようにしてアタックし、そのまま太郎さんの顔をなぞるように緑の体をローリングさせた。
思わず、悲鳴をあげたのは人間の太郎さんだった。
「うわぁ。お前、新鮮だな。体中に生えた棘が、チクチクする!」
「思い知ったか。これが、究極朝採れキュウリの実力じゃぁ!」
そんな彼らを冷めた目で見る、美里さん。
彼女にとっては、訳の分からない『男とキュウリの勝負』より、今日の晩ごはんのメニューの方が気になってしかたなかったのだ。
里美さんが、ぽつり、つぶやいた。
「もう、めんどくさいな。晩ごはんは、キュウリを生でかじってもらおうかしら。なんでもいいって、さっき、太郎クンは言ったしね」
それを聞いた、一人と一本の動きがぴたりと止まった。
がっくりとうなだれ、一人と一本は、こう言った。
「そ、そんな……。オイラをそのままかじるなんて……ひどい」
「そ、そんな……。晩ごはんがキュウリだけなんて……ひどい」
しかし、ショックの度合いは九太郎の方が大きかったらしい。元々青い顔の九太郎の顔が更に青くなり、バタンキュウとその場に倒れてしまったのである。
それを見た里美さんが、「わあ、大変。救急車を呼んで!」と叫んだ。あわてて太郎さんが携帯を取り出し、電話する。
「すみません、キュウリの九太郎が倒れてしまって――。すぐに救急車をお願いします」
「何だって?」
「だから、キュウリの九太郎がですね――」
「キュウ……リ?」
「そう、キュウリです。採れたて新鮮で、棘がめちゃめちゃ痛くて――」
「ああ……いたずら電話ですか。困りますね。切りますよ!」
ぶちりと電話を切られてしまった太郎さんが、呆然と立ち尽くす。
彼の足もとで、青息吐息となった九太郎が、つぶやいた。
「わかったよ……。結局、オイラたちが究極のキュウリであることが悪いんだな。ならば、オイラたち、普通のキュウリに戻るから、よく冷やしてからかじってくれよ……。冷やさないと、キュウリの良さが出ないからさ。それでは……またいつか……会おう」
「……昔のアイドルみたいなこと言うなよ、九太郎。そんでもって俺は、特にお前にまた会いたくは――ない」
「太郎、お前……ホント、冷たいヤツだな。それくらい、オイラたちをキンキンに冷やしてくれ……よ……な」
上手いことを言って、そのまま身動きひとつしなくなった、九太郎。
普通のキュウリに戻ったのだろう。
「……九太郎もそう言ってたし、井戸水でよく冷やしてから食べましょうか」
床に横たわった九太郎を拾い上げた里美さんは、裏口から庭へと出た。そして、庭にある蛇口をひねり、ひんやり冷たい井戸水を桶にたっぷり汲むと、究極のキュウリを9本、そこに浸した。何回か水を取り替え、よく冷やす。しばらくして、部屋着に着替えた太郎さんも裏庭に合流した。
「もうそろそろ、かな」
「うん。もう、いいんじゃない?」
お腹が空いた夫婦は、それぞれ一本づつ桶からキュウリを取り、ぼりりとかじった。
「うわ、うまっ!」
「ほんと、おいしいわ」
「採れたて新鮮なキュウリを冷やしてかじる……。これこそ、究極のキュウリだな」
「私、家庭菜園の天才かも!」
空を見上げた二人が、九太郎にお礼を言う。
「ありがとう、九太郎。キミのことは一生忘れないからね」
「ありがとうな。でも……もう、出てこなくていいからな」
夕暮れに染まる空のスクリーンに、にっかりと笑った九太郎の笑顔が見えたような気がした、二人なのだった。
おしまい
お読みいただき、ありがとうございました。
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