7.鈴の音
エリオットが、またクラウディアとともに夜会に出席したらしいと、ロベルトが話した。
「これで三回目だ。お前は何をやってるんだ?殿下はお前の婚約者だぞ。ちゃんと誘いは出しているのか!?あの歌姫はすっかり婚約者気取りだ。確かに、あの歌姫は美しい。だが、それに臆して何もしなければ、お前は誰にも知られないまま、婚約を解消されてしまうこともあるんだぞ⁈」
ケイトリンは身を竦めた。
ロベルトの怒りを受けて、何も言えないどころか震えが止まらない。
執事長が見兼ねて、ロベルトを止めた。
「お嬢様も殿下をお誘いになったのです。ですが、お断りされました。」
「それで?お前は何もしなかったのか。王宮にでも押しかけて、怒ればいいじゃないか。面会にも行ってないのだろう⁈」
そんなことをすれば、一度目と同じになってしまう。
最初の生の時は、愛人の部屋を訪れたと聞くたびに、夫となった人のもとを訪れ苦情を言い、時には愛人のもとに直接怒鳴り込んだ。
今のケイトリンとは全く別の性格だが、この記憶にあるのだから間違いなく自分なのだろう。
悋気を見せ、夫の前では泣いて甘えた結果、見るのも不快とばかりの視線を投げられるようになってしまった。
今更、そんな視線に耐えられそうにない。
エリオットが自分に興味を持たないことは、今となっては好都合なのだ。
「……私では無理です。お兄様。」
ケイトリンは絞り出すように言った。
「無理?何がだ。」
「私は殿下の妃にふさわしくありません。そんなことは、無理です。」
ロベルトが不愉快に眉を寄せた。
「分かっているのならふさわしく自分を変えればいい。甘えるな。」
ケイトリンは俯いた。
何も言い返せない。
エリオットにふさわしい女性。
それはクラウディアだ。すでに運命は決まっている。いつの生の時も、そうだったのだ。
張り合おうとすればするほど、自分は死の罠に落ちていく。
三度目の生は、被害が周囲に及ばないよう、ライバルのように見えるようにした。
最終的に引くことを考えながら、張り合う姿勢を見せた。
あの世界は単純だった。
学校という狭い世界で、決まった学問の習得と、それにつけられる点数で基準がはっきりしていた。
社交も学校の中の狭い世界。
彼女と婚約者とは直接関わらないコミュニティを選べば、張り合う必要もなかった。
その時のケイトリンは、あの学校を引っ張っていく集団から少し距離を取るように努めた。学業では張り合うが違うグループに所属し、補助的な関わりは持つが華々しい舞台は下から眺める観客になった。
だから生まれた時から婚約を決められていたことは、あまり周囲には知られていなかったのだ。
婚約の解消が穏便に済んだのは、法的な根拠や周知がなかったから。恋愛で結ばれることを推奨された世界だった。
「顔を上げろ。ケイトリン。」
兄の声には苛立ちがある。
勇気を振り絞ってケイトリンは顔を上げた。
苛立たしく、ロベルトはため息をついた。
「お前は昔からわたしをいらいらさせるな。なぜ、ちゃんとできないんだ。アーロン家に生まれてきたことは、感謝すべきことだというのに、一体何が不満なんだ。この家の義務も果たせぬなら、さっさと身分を捨てて出て行けばいい。」
ケイトリンは震えた。
いずれ、くる未来。
逃亡か、死か。
だけど、今放り出されれば、それこそおぞましい陵辱が待っている。
この世界の治安は悪い。
そして、外見で身分がわかるほど経済差がある。
身一つで放り出されれば、生きていく術はない。
青い顔をしたケイトリンをロベルトは憎らしく睨んだ。
「もういい。部屋に帰れ。お前の顔など見たくない。お前には任せられない。お父様たちと相談する。」
ケイトリンはふらふらと談話室を出た。
執事長がエスコートで付き添った。
「お嬢様。」
執事長は代々アーロン家に従う男爵の家柄。
だが、身分は低くても王家の信頼篤いアーロンの執事なので古文書や戒律に精通し、その一族は引く手数多だった。
この屋敷で預かる使用人たちの教育を任せられている人物でもある。
「ロベルト様のお言葉は厳しいですが、心配されておられるのですよ。ケイトリンお嬢様はアーロン家主家の唯一のお嬢様です。王家に従う宮中伯の中で、令嬢の見本となるべきお立場。これから社交界に出られる時には、必ずそのような目で見られます。あなた様の振る舞いが、この国の社交界の基本となります。顔を上げて、凛としていてください。この屋敷に来る侍女たちは、あなたの振る舞いを学びにきているのです。」
そんなこと、できない。
ケイトリンは、また俯いた。
執事長はため息をついて、部屋に送り届けた。
ケイトリンは泣いた。
エリオットがどうという問題ではなく、自分では無理なのだ。
貴族社会を引っ張っていけるような器では、最初からない。
泣くと頭痛がして、目の奥が痛んだ。
そうだった。とケイトリンは思い出す。
昔はよく泣いていた。
怖がりで、気が小さくて、不器用で。
王宮に遊びに招かれると、エリオットをはじめとする元気の良い男子たちは木登りをした。
ケイトリンは怖がって嫌がったが、エリオットが面白いから、景色がいいから、と説得して引っ張りあげた。
確かに視点は変わって面白かった。エリオットと同じ風景を見れたことが嬉しかった。
だが、その後が降りられなかった。男の子たちは慣れて飛び降りたが、ケイトリンはできなかった。
ぐずぐずしているケイトリンを置いて、エリオットたちは行ってしまった。
木の上で泣いて、泣き疲れて木にしがみついて、やっと警護に見つけられて下された。
王宮に招かれる子どもたちは、闊達で自信に溢れ、その無邪気さや横暴さによく泣かされた。
泣くと頭痛がするので、我慢するようになった。
ここ何年かは、子供の遊びも変わり、泣かされるようなことはなかった。
屋敷にいて、勉強をしている限りは、教師に厳しいことを言われても、使用人たちにバカにされても、面と向かって泣かされるまで追い詰められることはなかったから、泣いていなかった。
こんなにいろんなところが痛む。
すぐに頭痛はするし、季節が変わるごとに全身に痒みがある。
そして記憶を思い出すと、再現されるように痣が痛みが出すようになった。
こんなことではまともに子供など産めないかもしれない。
前回の生で、とても高度な教育を授けられた。
今世の教育は為政者の身分として必要な知識に偏っているが、前回の生は人間の生物としての機能や、物質や物の仕組み、それを作り出すための基礎技術に偏っていた。
こんな不出来な体では、子どもを産むことは難しい。
万が一産めたとしても、五体満足で貴族社会に誇れるような、みんなが望むような子ができるかも不安だ。もし、そうでない場合は、それこそ。
ケイトリンは目の奥を揉んだ。
エリオットから逃げて、別の貴族に嫁いだとしても同じことだ。
貴族にはこの社会を持続させる責任がある。そのために子を産むのだ。
五体満足でない子供が生まれれば、それが非難の対象になる。自分だけでなく、その生まれた子も生きていくのが辛いだろう。
優しい人だったら。
ケイトリンは思った。
前回の生で出会った教師には障害を持った子どもがいた。
全身に麻痺があり、ベッドのような車椅子で移動していた。それでも、父親である教師はきちんとした教育機関に預け、時には職場である自分たちの学校に連れてきた。
そういうことが推奨された世界であったとしても、とても労力のいることだ。
貴族であってもみんながみんな、ロベルトのような厳しい人とは限らない。
この家の娘として生まれてきた限り、結婚は貴族の義務。
領地に逃げたとしても、いずれはどこかに嫁がなければいけないだろう。
辺境に近い、小さな領にでも嫁げれば王都からは離れられる。
マリアは辺境に近い土地に嫁いだ。
マリアの夫はたいそう優しいのだ、と聞いていた。
そんな人だったら。
お父様に相談してみよう。ケイトリンはやっと自分の道が見えた気がした。
この生で、何をすべきか。
どうやって生きて行くのか。
まずは体を治すことだ。
体力をつけ、体の不調に惑わされないようにしないと、逃げることはできない。死を選んだとしても、自分で幕を引くこともできない。
チリン
鈴の音が聞こえた気がした。
一度目の生。弱って声もあげられない自分に巻かれた紐についた鈴。
あの苦しみ。
弱ってしまえば、自分で楽にすることもできないのだ。
早く。なるべく早く。
この議会が終われば社交の季節は終わる。
ケイトリンは春が待ち遠しかった。