57.運命にさよならを
出発の日、朝早く、マシューはケイトリンの屋敷に来た。
急だが、シンキョウに向かうことになった。
そう告げると、ケイトリンの目が揺らいだ。
「……マシュー。」
ケイトリンは名前を呼んだまま、言葉が出なかった。
見つめ合うことで、心が通じた気がした。
愛しているのだ。とマシューも分かった。ケイトリンもきっと、自分のことを想っている。
こんな世界でなければ、こんな会い方をしなければ、もっとお互いを愛することができたかもしれなかったのに。
二人ともそう思った。
二人の間にも運命はある。
エリオットほど強烈な運命でなくても、常に近くにいて、同じ風景を見ていた。
いつの時も、ケイトリンは優しい穏やかな笑顔を向けてくれていた。
初めの生は彼女の楽の師だった。
その次の生は、対立した派閥を率いた一人だった。
一つ前の生では学友として側にいた。
そして今生、幼い頃を一緒に過ごした。楽しいが騒がしくはしゃぎまわる他の者たちと違い、ケイトリンはいつも少し遅れて、少し離れたところから微笑んでいるだけだった。
その落ち着きが子供らしくなく、いつも隣にいるとなんだかむずかゆかった。
彼女が大人だったからだ、と今になって分かる。
自分より小さいのに、大人な彼女に気後れしていたからだ。
幼稚だったのだ。
何度、生を重ねても、その幼稚さから抜け出せなかった。
永遠に追いつけない。生を重ねる度に彼女は大人になって、美しくなっていく。
側にいたかった。
できればこの手で、彼女を幸せにしたかった。
「君を幸せにしたかった。」
マシューの声が涙で震えた。
「幸せよ。あなたに会えて、良かった。」
彼と一緒に行けたら。ケイトリンは思った。
マシューのことが好きだ。今なら彼は裏切らない。そんな気がする。
だが、この体に刻み込まれた記憶が、きっと彼を拒むだろう。
その度にマシューを傷つける。
優しい彼はその度に自分を苛むのだろう。
彼には言いたくなかった。
彼にだけは、思い出してほしくなかった。
そんな記憶などなく、彼の側で穏やかに過ごしたかった。
「騎士の誓いを捧げさせてほしい。」
マシューがケイトリンの前に跪いた。そして、自分の短刀をケイトリンの前に差し出した。
「私は君の騎士だ。君が悲しんでいる時は、きっと駆けつける。どこにいようと。私の心は永遠に君のものだ。」
「いけないわ。あなたにはきっと、ふさわしい人がいる。」
エリザベスのために、彼はこの先、妻を迎えなければいけない。きっとそうなるだろう。
形だけであっても、その相手を裏切らせたくない。
マシューは、頭を振った。
「私は、この先、君以外愛せない。何度生まれ変わっても、君が好きだった。運命は何度だって、私に君を手に入れるチャンスを渡した。だけど、私が君にふさわしくなかったんだ。君にふさわしい男になりたい。来世でも、きっと君に恋をする。だからわたしを選んでくれ。エリオットではなく、わたしを。エリオットより早く、わたしは君を見つける。」
ケイトリンは手袋を外し手を差し出した。
マシューは手の甲に口づけをして、その手に短刀を持たせた。
立ち上がって、ケイトリンを優しく見つめた。渡した短刀をケイトリンの手ごと優しく手で包んだ。
「この短刀は切れないよ。もう二度と自らを傷つけないで。」
そして、首筋にかかったケイトリンの髪をそっと払った。
今日もケイトリンは首筋を隠す立襟のついた服を着ていた。
そっと立襟の中に手を入れると、痣が現れた。マシューは指で優しくその跡を撫でた。
唇を落とし、ケイトリンの首筋を唇で柔らかく噛んだ。
「これはわたしのキスの跡だ。愛の印。本当はずっと好きだった。きっと最初の生の時から。だから気になっていたんだ。なんて幼稚なんだろう。何回生まれ変わっても、こんな幼稚な恋しかできないなんて。」
ケイトリンの眼に映るマシューが涙で滲んだ。
「君の髪をくれないか。」
ケイトリンは頷いた。
マシューが懐から小さいナイフを取り出し、ケイトリンの髪を一房切った。ナイフにはケイトリンの贈った組紐の飾りが付いていた。
その髪にマシューは口付けた。
「さようなら、愛しい人。」
マシューが愛しげにケイトリンに言った。
ケイトリンは涙を堪えることしかできなかった。
あなたを愛してる。
そう思いながら、見つめることしかできなかった。
優しいマシュー。
この先、生き延びることができたら、もう一度彼に会いたい。
こんなに切なく、こんなに泣いてさよならも言えないなんて嫌だ。もっと、穏やかな微笑み合える日がほしい。
「あなたが苦しんでいる時は、すぐに来るよ。わたしを忘れないで。あなたは一人じゃない。どこにいても、あなたを愛してる。」
マシューは去っていった。
ケイトリンは泣きながら、マシューの短刀を抱きしめた。
ケイトリンはセシリアの屋敷に向かった。
セシリアの侍女として、神殿についていくことに決めた。
泣き腫らした目のケイトリンをセシリアは優しく見つめた。
「さようなら。愛しい人。」
ケイトリンを見つめて、セシリアが言った。セシリアの美しい瞳から涙がこぼれた。
「さよならを、言ったのね。」
ケイトリンからは言葉は出ず、唇が震えた。
「彼のことが、好きだった?」
ケイトリンは迷いなく、頷いた。
「さよならだけど、嬉しかったのね。」
ケイトリンがポロポロと泣き出した。
マシューが好きだった。
いつも優しかった。
エリオットたちについていけないケイトリンを待っていてくれたのは、いつもマシューだった。
そんなことに、今頃気付いた。
もっと勇気を出して、彼に近づいていけば、この運命を変えられたのかもしれない。
さよならを言われて、運命に立ち向かいたい。初めてそう思った。
自分を愛する人を悲しませたくない。愛してくれた分、愛を返したい。
素敵ね。セシリアが呟いた。
やっぱり、先生は綺麗だわ。
とても綺麗で、でも悲しいの。その悲しみさえ、とても綺麗なの。
セシリアは歌うように言った。
すれ違う心。噛み合わない物語。
心の片隅に棘のように刺さって、苦しみ、恨み、赦し、それでも忘れることが出来ない想い。
叶うことができたら、それは幸せなのかしら
「ええ、きっと」
ケイトリンは答えた。閉じた両目から涙が零れる。
「だけどその時は、物語が終わってしまうのよ」
セシリアは少しだけ寂しそうに言った。
「悲しみがこんなに美しいものだと思わなかった。だけど、愛する人の幸せがこんなにも嬉しいことだと知らなかった」
大好きよ。先生
女神のような微笑みで、セシリアはケイトリンを抱きしめた。




