2.ここではない世界
気付いた時は、部屋のベッドだった。ケイトリンは安堵して、深い息を吐いた。
あれは、夢。
生きている。
よかった。
朝はまだ早く、部屋は仄暗かった。吐いた感覚を思い出し、水場に行き、自分で洗面器に水を溜め、洗った。
顔を上げた時に写った顔に、悲鳴をあげた。
この顔を、知っている。
見慣れた顔だった。
生まれた時から見慣れている、自分の顔。
だけどこの顔で何度の生を生きたか。
同じことを繰り返し、残酷な死を迎えたか。
また、同じ顔。
肌は青白く、落ち窪んだ目の周りはくまができている。
わたしは、気が狂ったんだわ。
ケイトリンは素直にそう思った。
夢というにはあまりにも酷な。頭から離れない記憶。
これを前世と言わずに、なんと呼ぶのだろう。
二回目の生から、ケイトリンはこれが前回の生の記憶だと、自覚していた。
そんなことまではっきりと覚えている。
叫び声に気づいて、侍女が起きてきた。
「大丈夫ですか⁈お嬢様!」
高位の伯爵家の娘に当たるケイトリンには、三人の侍女が付いていた。
どれも家庭教師を兼ねて、今日、附室で控えていたのは、母親と同じくらいの歳のリアネットだった。
「まだ、無理に起きてはいけません。わたくしを呼んでください。」
リアネットはそう言って、優しくケイトリンをベッドに連れ戻した。
「お熱は下がったようですね。ようございました。」
「熱?熱があったの。」
「覚えていらっしゃらないのですね。すごい高熱で。きっと身の内の毒にやられたのでしょう。」
身の内の毒、というのはこの世界、独特の言い回しだ。
原因不明の高熱や、慢性的な疾患を表現するときに使う、と思いあたり、ケイトリンは眉を寄せた。
この世界?ここ以外?
頭が痛んだ。
私はどこで生きていたの?
突然溢れ出た記憶は、前世、というにはあまりにも違いすぎる世界だった。
一つ目の生では、何重にも着物を重ね、ほとんど立ち歩くことのない生活をしていた。式典のたびに着物は重く、姿勢を保つのもやっとだった。ここよりもずっと不便な世界だったが、ケイトリンは今と同じように侍従に囲まれ、自分から何か生み出すことはなかった。
生み出すことを義務とされていたのは、子供だけ。
そうだ。自分は子を産んだ。
ケイトリンはきつく目を閉じた。
男の子だった。
男の子を生むために、自分が生まれ育てられた。あの方の子を生むために。
エリオットに似た高い鼻梁の面差し。あの方の伴侶になるのだと思って生きてきたから、あの方を嫌いになるなんて考えもつかなかった。
だが、彼は違ったのだ。
妻になるはずの自分より、なり得るはずのない女性を愛した。宿命から自分を娶ったが、自分は振り向かれなかった。それが悔しくて、女性を追い出すべく、嫌がらせを繰り返した。
その結果。
自分は毒を飲まされた。
一度ではない。
子供を産んでからずっと、少しずつ少しずつ。
一度もこの手で子供を抱くことなく、顔を見ることもなく、体の自由がなくなった。
最初に失ったのは目だった。
ずっと頭が痛かった。
手も痺れていた。
そのうちに視野が狭くなったことに気づいて、時々に視界が薄れていった。
ある日、とうとう何も見えなくなった。
目を失った頃は、四六時中虫が這うような感触があった。
じくじくと火傷が痛むような感覚が内蔵を蝕んでいた。
私は早々に屈服した。
これは毒だ。
殿がもたらした決別。
どうせなら早く殺してほしい。
一人、のたうち回りながら長い時間、許しを請うた。
早く殺してくれ、と。
諦められず、申し訳なかった、と。
あなたの愛が、いつか私にくるものと、愚かにも信じ、あなたを苦しめた復讐。
そんなことをさせるつもりはなかった。だからどうぞもう、許してほしい。
この身の内を焼く苦しみから、解放してほしい。
時折、血を吐きながら、一人懺悔した。
チリン。
ケイトリンは鈴の音を聞いた気がした。
左手をあげる。
手首に赤く、輪のように着いた痣があった。生まれた時からあり、ケイトリンの白い肌には目立った。
この痣。
これはあの鈴の跡なんだわ。
あの時の自分は頭もあげられないほど弱り、侍従を呼ぶために、この鈴をつけられた。きつく結ばれたために床ずれし、痛んだが、誰にも気遣われることはなかった。
この鈴を鳴らして侍従を呼んでも放っておかれることも多く、常に汚物で汚れ、最後は思考さえも止まっていた。
最後にまともに話したのは、夫に毒を飲まされた時。
ああ、これで死ねる。
ケイトリンは安堵して、夫に感謝した。
もう、姿も見えなかったけど、せめて自分の手で殺してやろうと、来てくれたことが嬉しかった。
最後の一瞬まで、自分はあの男が好きだったのだ。
諦めていたのに、憎むことができなかった。自分は何を待っていたのだろう。
最後に飲まされた毒。
体の中に火をつけられたようだった。
あの死は残酷だ。
その後の二回の生の中で、一番苦しみ、一番痛かった。
生きていること自体が、地獄のような。
あの死だけは嫌。
お腹の中で、毒を飲まされた時の感覚が再現されたようで、ケイトリンは痛みを覚えて丸まった。
身体中に虫が這う感覚に、爪を立てて掻きむしった。
「どこか痒いのですか、お嬢様。」
リアネットが、優しく体をなぜてくれた。
また、始まったのだ。
この苦しみが。
過去の記憶に蝕まれ、エリオットを避け、失敗し、死に追いやられる。この人生が。
私が苦しんだのは、あの方を愛したから。
早く、逃げなければ。
ケイトリンは苦しみに身を縮こまらせながら、思った。